2016年11月16日水曜日

異質なものを結ぶ難しさ

前の投稿で、結びについて次の様に記した。
  結び: 
   結びと言うのは、同質のものを合わせる(加算する)ことではない。
   異質のものを結んで新たなもの(はたらき)を産み出すことを結びと言う。
   縦と横、見えないものと見えるもの、陰と陽、天と地、霊と体 これらを結んで、
   新たなもの(働き)を産み出すことを結びと言い、結ばれた時に喜びと光を伴
   った爆発的なエネルギーを生じさせる。 このことを武産合氣と言うのである。


・結びと言うと
   ・糸を結ぶ
   ・ひもを結ぶ
   ・帯を結ぶ
   ・契りを結ぶ
 と言う様に、同質のもので結ぶか、共通目的の為に結ぶ ことを意味する。


・異質のもの、真反対のものを結ぶと言うと
   ・縦と横
   ・陰と陽
   ・天と地
   ・霊と体
   ・火と水
   ・想いと行い
 となるが、皆さんはこの異質なものの結びを想像できるでしょうか?
 結びと言う言葉より、交わりと言う言葉の方がイメージし易いかも知れない。
 但し、異質のものが交わって、ミックスされたと言うイメージなら、それは全く違う。
 異質なものが交わった瞬間に、以前の姿形・性質・働きは消え、新たな姿形・性質
 ・働きを生じるのである。 
 また、交わった瞬間に真・善・美と光を生ずるのである。
 別な言い方をすると、真・善・美と光を生ずる交わり(結び)は、正しい結びと言える
 のである。


・霊と体、火と水、想いと行い を結んで、真・善・美と光を生じる為には、何が必要と
 なるのであろうか?
 
・例えば、霊と体を結ぶには何が必要となるのであろうか?
 大(翁)先生は、直筆の書(合気道 壱之巻)で次の様に記しておられる、
 『合気は神の御姿御心より出で真善美なる無限絶対の世界御創造、御経綸の精神
  なり。』と言われている。
 肉体が産まれる時、肉身は母親が産み、魂(霊)は分け御魂として神様が産む。
 分け御魂には核として真・善・美が組み込まれている。
 体が主体で霊と結ぼうとしても無理である。 体(脳)は霊を感知出来ない。
 となると、霊にはもともと真・善・美が組み込まれていて光を発するわけであるから、
 霊が主体で体と結べば良い事となる。
 だが、簡単には霊が主体で体と結ぶことは出来ない。
 霊は、完全であり、純粋であり、我欲は無く、真一筋である。 霊が主体となって肉身
 と結ぼうとするなら(霊が滲み出る様な様相で肉身を覆う様にしようとするなら)、
 肉身の心が純粋で真一筋の状態になる必要がある。


・以下は、以前に大(翁)先生の直筆の書に対して、私の解釈を記した内容である。
 以下を併せて理解して頂ければ、異質のものの結びについて理解して頂けるかとも
 思います。
 
・合気とは妙精な気と荒い気の結びである。
妙精な気は神の発する気で虚空の気である。
虚空の気は、この世(顕界)を成り立たせ、顕界は有限の世界であるのに対し、顕界
とは別の次元に存在し、無限の世界である。 
神はこの無限の妙精な気を使って、この世(顕界)を創った。 
この顕界の現れをビッグバンと呼び、個が初めて存在し、個と個の間に空間と時間が
存在し、相対が発生した。 
妙精な気は、真善美と言う核で構成されている。
荒い気は、顕界を構成する処の物の気であり、人や自然界が発する気である。 
荒い気は科学の力で存在を確認出来ても、妙精な気は科学では到底計測できない処
のまことに小さな存在である。 しかもこの気は真善美で構成されているため、汚れた
気や欲の気とは結ばれない性質がある。
別の次元にある妙精な気(真善美)と人の荒い気を結ぶ為には、人の個として存在す
る属性(自分を存在させる為の欲)を働かなくし、穢れ、淀みを真(まこと)を以って浄化
する必要がある。

・この世(顕界)は、神の御姿御心より生じた有限の世界であり、人の気は荒いが、
真(まこと)ひとすじによって、 別次元にある処の神の気(妙精な気)と合気(結ぶ)し
て、妙精な気を発動できる様になる。
妙精な気は真善美で構成されている為、有限の世界である顕界と、無限の世界である
次元の世界(幽界、霊界、神界)が結ばれることとなる。 つまり、顕幽神が一体となり
無限絶対の世界御創造となる。


・横の世界(時間、空間が存在する有限な顕界)と縦の世界(時間と空間が無い処の次
元の世界(無限世界))が結ばれて、顕界にいながらにして無限絶対世界(縦の幽界、
霊界、神界)にもいる状態となる。
この様な状態は人の完成を意味し、地上天国構築ともなり、三界(顕幽神)が貫かれる
姿となるので、御経綸の精神となる。

時間と空間の無い世界

・一二三神示に、次の様なことが記されている。
 地上人には時間が考えられるなれど、神界には時間がなく、神も霊人も時間は知らない
 のであるぞ。 只よろこびがあるのみぞ。 神界で時間申すのは、ものの連続と変化、状
 態の弥栄の事であるぞ。


 霊界にすむものは多くの場合、自分の住む霊界以外のことは知らない。 
 その霊界が全ての霊界であるかの如く思うものであるぞ。 
 同じ平面上につながる霊界のことは大体見当つくのであるなれど、段階が異なってくると
 判らなくなるのであるぞ。 他の霊界は霊自身のもつ感覚の対照とならないからである。 


・上記によって、霊界(時間と空間のない世界)の様相が推測できるが、私の思考の基準
 を以下に記します。
   ①幽界、霊界、神界は、無限の次元で構成されている。
     ・各次元は平面で構成されている。
     ・自分のいる次元より下位の次元は見えるが、上位の次元は見えない(知らない)
     ・各次元には時間は無い。
     ・より上位への移動は、浄化次第で決まり、自分の意志では移動できない。
     ・地上界の時間の変化に対応するものは、ものの連続と変化、状態の弥栄である。
      従って、存在するものの死は無い。
   ②地上界は(三次元+時間)で構成されており、時間の流れによって過去、現在、未
     来があり、肉身で認識し確認できるのは今現在のみである。 過去は、見ることは
     出来ず、記憶に残るだけである。 何故過去が見えないかと言うと、時間が一方向
     へ進み、同一場所に存在するものは時間と共に変化するからである。 そう言う意
     味では、存在するもの総てが生きており、何らかの呼吸をしていると言える。
     未来も見えない。 過去の変化から推測が出来るだけである。
     過去に造ったお城が見えると言ったって、それは過去に造ったお城が今迄の時間
     で種々の変化をし、朽ちていない今現在の姿を見ていると言うことだけである。
     要するに地上界、顕界の総ての存在物は有限で、常に変化をしていると言うことで
     ある。 物によって変化のスピードが異なるだけである。
 
・幽界~神界をここでは霊界と呼ぶこととする。
 時間と空間が無い霊界の世界の様相を以下に推測して見ることとします。
   霊界は、平面の世界である。 
   平面の世界は次元の世界であり、次元は無限にある。
   次元は波動の世界であり、同一波動を持つ超微粒子の集合体と見て良い。
   例えば、人の霊が六次元(第6層)の波動を持っていたとすると、霊界の6番目の次元
   (第6層)に行く事になる。
   その層に於いて、進化(浄化)が進むと、その霊を構成する粒子が更に微細化し、波動
   が更に短くなる。 そうなると、次の第7次元(7層)へ知らない内にシフトする。
   第7次元にシフトした霊は、今迄の変化内容は各次元に残っているので、総てを見るこ
   とが出来る。 
   しかし、更に進化した(浄化した)次元(層)は、自分が更に進化(浄化)しない限り
   永久に見ることが出来ない。
   要するに、意思を持った波動・粒子は、自分より荒い物は存在を確認できるが、自分よ
   り微細なものは存在を確認できないのである。
   言い換えると、自分より低い次元に存在するものは総て見えるが、自分より高い次元
   の存在は一切確認できないと言うことである。
   霊界は、弥栄なので、霊の各次元での変化は総て残っていると言うことになり、自分も
   他の霊の変化を確認できることとなる。
   尚、霊界では思う事が総て実現すると神示に記載されているが、このこともそうであろ
   うと思っている。 私は雲を消せます。 雲の無い状態を完全にイメージ出来れば、
   すぐに消えます。 この現象はエネルギーの法則は当てはまりません。 
   しかし、イメージ力が現象を創り出す証明にはなります。 
   霊界で思う事が現象として現れることと、地上界で雲を消すことの似ている点は、
   対象が微細な粒子で構成されていると言うことです。
   顕界・地上界が虚空の妙精な気で創られていることから見ると、意思(想念)の力で、
   地上界では雲を消し、霊界では思う事が実現することは、何ら不思議なことでは無い
   と私は思うのですが、皆さんはどう思われますか?


   尚、各次元は平面で構成されていると記したが、これは地上界に於ける紙面の様な
   平たい面の事では無い。 同質の立体である。 同一波動の立体である。 
   地上界と霊界は、復立体、立立体の関係にあると言われている様に、各次元は同
   質(同一波動)の立体である。

2016年11月11日金曜日

合気道(武産合氣)を宝とせよ


・大(翁)先生は合気道(武産合氣)を人々の宝とせよ、と言われた。 
 合気道の稽古を通じて、自分自身の、家族の、国家の、人類の宝にせよと言われた。
 皆さんは、この教えをどのように理解されていますか?


・合気道(武産合氣)は、この地上界(現界)・有限の世界に於いてのみ宝となるのであ
 ろうか? もし、そうなら、何故合気道(武産合氣)に禊の働きが必要なのであろうか?
 何故、大(翁)先生は、一方で合気道(武産合氣)は真人(まことびと)の養成にあると
 言われたのであろうか?


・合気道は和合を大事にする武道だから、性別の違い、人種の違い、宗教の違い、価
 値観の違い、地位の違い、年齢の違い・・・・ 
 これらの違いを乗り越え、お互いが和することを心がけて争うことなく稽古をする。 
 そうすることによって、お互いを尊重し合い、お互いを認め合い、仲の良い世界を構
 築していく・・・・ それが世界平和に貢献して行く。
 こんな風に私は理解をしていたが、これは反面(片一方、反対側の意味)しか言って
 いないと思う様になった。
 現在の地上界でのみ通用する宝でなく、真人(まことびと)となって、死んでも幽界に
 迷う事なく、真っすぐ上の世界へ行ける為の宝にしなさいと大(翁)先生は言われてい
 ると思う様にになったのである。




・今現在の自分や他の人を認め合って争いを無くす努力をすることも大事だと思うが、
 それでは、我欲を認め合って、自分の本質を変えず、表面だけの和合(結び)をしてい
 ることになる。
 これでは有限の世界・はかなく消え行く世界での宝となってしまう。
 只単に争いを無くすと言う浅い宝になってしまう。


・自分の外側に目(意識)を向けるので無く、自分の内側に目(意識)を向けることが必
 要である。 自分の外側は有限の世界であり、個の世界であり、相対の世界であり、
 はかない世界である。 自分の内側の世界は無限の世界であり、全体の世界であり、
 絶対の世界であり、永遠の世界である。
 
・武産合氣の禊の働きにより、個に属する我欲の働きを薄めて少なくし、遂には我欲が
 働かなくすることにより、内側深くに眠る魂を呼び起こし、霊的な働きを強くし、
 現界(地上界)に於いて霊(魂)と体を結び、一方で霊線を強くして霊界と結ぶ。
 こうなると、半霊・半物質の体を持つことになり、顕・幽・神の三界を自由に行き来する
 ことになる。 このことを言い換えると、霊主心従体属と言う状態になる。
 霊は生き通しであり、無限の世界にあり、真(まこと)一筋であり、穢れがない透き通っ
 た存在である。
 大(翁)先生が武産合氣を宝とせよと言われたのは、武産合氣の禊の働きによって、
 自分の我欲と言う色を削いで(落として)、肉身の奥の奥の奥にある処のまこと一筋の
 霊の働きを強くして、体と結び、霊主心従体属の状態を創って下されよ と言う意味だ
 と思っています。
 このことを言い換えると、真人(まことびと)の養成であり、人の完成と言うことになり
 ます。
 言い換えると、永遠の命と無限の世界を得たことにもなります。


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一二三神示(ひふみしんじ)に、
 平面の世界
 立体の世界
 復(複では無い・重ねるの意味)立体の世界
 立立体の世界
と言う言葉が出て来ます。 
皆さんは、この世界を想像できますか?


半霊半物質、霊主心従体属、顕・幽・神の三界 と言う言葉も、神示や大(翁)先生の話
しに出てきます。 これらの言葉がどの様な状態を現しているか想像できますか?


ここからは、私の勝手な解釈を記します。 最も、前半に記させて頂いた内容も、私の勝
手な解釈ですが・・・・・


・まず内側の世界を見るにあたって、X線を想像してみて下さい。 ご承知のようにX線は、
 レントゲン写真にも利用されています。 
 X線は電磁波の一種で、波長が非常に短く、物質を透過する性質を持ち、密度が高く、
 厚みが厚いものは透過しにくい性質も持ちます。
 ちなみに波長の長さで見ると、可視光線は10のマイナス7乗、電波は10の5乗~10
 のマイナス5乗、X線は10のマイナス11乗と言う長さです。
 要するに波長が極端に短くなると荒い物を透過すると言うことです。


・自分のレントゲン写真を撮った時、あっ X線が通過した等と感知出来ません。
 これがヒントです。
 ですから見えない世界、次元の違う世界は遠くには無いと言うことです。 むしろ、全く
 逆で自分の中に折り重なってあると言う事です。
 X線の粒子より更にずーと細かい超微細粒子で構成された人の霊が、見える身体と折
 り重なって、一つ次元の高い(深い)ところに存在していると考えれば良いかと思います。
 良く魂が星になったと言って、死んだら如何にも遠くに魂は旅するように言われている
 が、これは人間が理解し易い様に表現しただけであって、実際は次元の違う場所に移
 っただけなのです。
 見える世界の場所も人も植物も動物も全てに次元があり、地上の世界の内側に無限
 の次元があると考えれば分かり易いかと思います。 
 人間を構成している肉体と言う物質は非常に荒い、従って超微細なもの(波動)は人間
 を透過できるし、超微細なもので構成された魂は、肉身の中(中と言っても次元の違う所)
 に存在しているが、荒いもので構成されている現界と言う次元からは、一次元深い所に
 存在する霊を感知できないのです。


・見える世界、物の世界、つまり現界・地上界(顕界)をベースに考えると、自分と言う
 空間・場所・スペースに、一つ深い次元(層と呼んでも良い)の魂(霊)が存在する。 
 従って、現代科学が次元を超えられない限りに於いては、魂を見~つけた! と言うこ
 とにはなりません。
 顕界と一つ次元の深い世界とを結んだのを一二三神示(ひふみしんじ)では、立体の
 世界と呼んでいる。 そして更にもう一つ深い次元と結ぶと復立体となる。 
 このことは三界(三つの次元)を結んだとも言える。 顕・幽・神の三界(三つの次元)
 を自由に行き来できる合気道を目指された大(翁)先生は、実は次元を超えられること
 を目指されたと言うことです。
 三界と三つの次元は簡単に言うとそうなると言うことであり、詳しく言うなら、三界は
 次元が三つ重なっただけかと言うと、それは全く違う。 
 幽界にも霊界にも浄化のレベルによって、無限に次元が存在する。


・次元が一つ違うと、上位から下位の存在は感知できるが、下位から上位は感知でき
 ない。 これは波動の長さ(微粒子の大きさ)の違いから生じる。
 つまり、人の欲は荒く大きい、この欲を削(そ)げば、少し小さくなる。 そして更に個と
 しての属性を削(そ)げば更に小さくなる。 このことを浄化と呼んでいる。 
 霊の世界(見えない世界)に於いても浄化を重ねれば重ねるほど、次元が違って、住
 む所が違ってくると言う事になる。
 このことは、地上界(顕界) → 幽界 → 霊界 → 神界 と順次昇華して行くことに
 もなる。
 ちなみに三千世界と言うのは、地上界(顕界)も含めた全次元(全界)のことを言う。


・もし、大神様が顕界(見える世界・地上世界)と見えない世界を、一つにしたら、地上
 界に住む我々は一体どうなってしまうのか?
 その時は人が勝手に創り上げた幽界も存在しないと言うことになる。 
 そうなると、火水伝文(ひみつつたえふみ)にもあるように、死にたくても死ねないと言
 うことになる。 つまり、死んで行く処もなく、生きて行く処もないと言うことになる。
 生きるには、一つ上の次元でも生きられる様なマコト人になるしか無いのである。
 故に、大(翁)先生は、武産合氣は、真人(まことびと)の養成のためにあると言われた
 のである。 要するに、この地上界のみならず、死んでも幸せになるために、武産合氣
 を宝とせよと言われたのである。 永遠の幸せの為に宝とせよと言われたのである。
 半霊半物質、霊主心従体属の状態の人を通常人が見た場合は、ごく普通の人に見え
 る、しかし五井先生の様に霊眼で見える人には、黄金のバリアが大(翁)先生を包んで
 いることが見える。 この状態になると、原爆でも破壊するのは無理である。 
 原爆は所詮、見える世界での破壊物である。 ヒマラヤの聖者の生活探求にもあった
 が、水の上を歩く、火災の中でも平気、瞬間移動等は、当たり前の話です。 
 次元を超えられると言う事は、顕界の常識は全く通用しないと言う事です。
 大(翁)先生が、人の心を読めると言うのも、当たり前の話なのです。 大(翁)先生の
 想いは神様の想いと同じ澄んだ微細な波動です。 一方他の人間の想い・考えの波動
 は荒い波動です。 そうすると、X線の様に突きぬけて、荒い想いなどは、総て見えてし
 まうのです。
 大(翁)先生は、霊眼で見ておられたのです。


・注意)
 結び: 
   結びと言うのは、同質のものを合わせる(加算する)ことではない。
   異質のものを結んで新たなもの(はたらき)を産み出すことを結びと言う。
   縦と横、見えないものと見えるもの、陰と陽、天と地、霊と体 これらを結んで、
   新たなもの(働き)を産み出すことを結びと言い、結ばれた時に喜びと光を伴っ
   た爆発的なエネルギーを生じさせる。 このことを武産合氣と言うのである。


 表と裏:
   神示に次のような表現がある:
     ・そなたは裏ばかり求めているが、表もだいじぞ。
     ・表と裏でひとつぞ。
     ・表から裏は見えないぞ。
   表と裏の性質:
     ・表は見える世界、地上界、有限な世界、顕界、現界、人で言うと肉身、
      五感の世界
     ・裏は次元が違う世界、表より一つ深い世界、無限な世界、霊界、人で言うと
      魂が存在する世界、真・喜・美の世界、光を放つ、霊感の世界
   表と裏の現れ方:
     ・表の肉身は母親が産み、裏の魂(霊)は神様が分け御魂として産む。
      この世に生じる限り、この原理原則は破れない。 言わば真理である。
     ・現界・地上界・顕界に産まれる限りに於いては、表が主として現れる。
      つまり、肉身の脳が肉身全体をコントロールし、肉身は五感によって状況を
      脳に報告し、脳はあらゆる指示をする。 
      この様な状態では、裏の働きは眠っている状況であり、表の我欲が全面に
      出ている状態である。 この状態を体主・心従・霊属と呼ぶ。
     ・悟りを開くと(我欲を無くして完全な真人(まことびと)になると)、裏の働き
      ・霊的な心が主導権を握り、肉身的な心は霊的な心に従う。 従って心の
      指示に従って脳が働き、肉身と肉身に属する五感総てが、霊的な心、及び
      それに従う肉身的な心の働きに応じて動くことになる。


     ・裏が表を覆(おお)って、裏のベールに表が包まれる形となる。
      裏が表に滲(にじ)み出ると表現しても良い。
      見た目では表(肉身)は何も変わっていないが、三次元の肉体が四次元の
      霊によって覆(おお)られている状態となる。
      霊は次元が一つ深い世界(四次元と呼んでも良い)にあるから、霊心が働く
      となると、顕界(三次元)と霊界(四次元以上)を自在に行き来出来ることと
      なる。
      このことが大(翁)先生が求めれた処の『三界を自在に行き来する合氣道』
      と言うことになる。
      裏の性質が表に現れる訳であるから、霊心が主導権を持った状態、つまり、
      霊主心従体属と言う状態では、光(透き通ったまばゆい黄金色)を放つ。
      大(翁)先生が悟りを開かられた時に黄金色に包まれたと表現されたが、実
      は余り正しい表現では無い。 黄金色に包まれたとも言えない訳ではないが、
      黄金色は外から来たものでなく、大(翁)先生の中から滲(にじ)み出たもので
      あり、滲み出た裏(霊)が黄金色を放ったのである。
      この状態は三次元にある肉身が四次元の世界(霊)に包まれた状態なので、
      三次元の如何なる力を以っても肉身を破壊することは出来ない。
      大(翁)先生の弟子が大(翁)先生に渾身(こんしん)の力を以って打ち込ん
      だら、電気ショックの様な衝撃を受け、焦げ臭い匂いがし、3~5メートル飛
      ばされたと言うのもごく当然であり、これを見ていた五井先生は大(翁)先生
      が黄金のベール(バリア)に包まれていたと表現したのである。
      三次元に住む人である通常人には、大(翁)先生を包むベールは見えない。 
      眼で見る限りに於いては普通の人間である大(翁)先生に見える。 
      だが、霊眼で見れる五井先生には、四次元(裏)で包まれた大(翁)先生が
      見れるのである。
      この状態の大(翁)先生は、月の裏側でも見えるし、人の心は総て分かるし、
      遠くの木の葉一枚が落ちても分かるし、鳥のさえずりの意味もわかる。
      四次元の世界には三次元の様な空間、時間が無いと言われたことを併せ
      て想いを巡らせば、ごく当たり前のことです。


生(活)きた杖、生(活)きた剣

・今日は杖をやりますけれども、最近庵野先生と色々お話ししてね、あのー・・・そ
 うだね、と言うことで納得し合えた部分がありますので、それも含めてお伝えした
 いと思っています。


・剣でも杖でも、生きた杖、生きた剣と言うのにする必要がある。 ですから只単に
 形だけ覚えてそれで役に立つかと言うと、それだけでは何にも役に立たない。 
 実戦に役立つ訳でも無いし、それが自分の生活の中でね活かして行くと言う事も、
 これも難しい。 型を覚えただけではね・・・・


・ええ・・、それで何が大事かと言うと、剣とか杖を活きたものにする必要がある。
 元々、体術と同じ様に合気剣、合気杖は神様から下ろされたものです。 ですから、
 そのことを良く意識しなければならない。
 ですから実際に生きた剣にしようと思ったら、まずは心と身体、それから奥深い霊
 的なもの、これをしっかり結ぶ必要性がある。 
 ええー、最初から結べなくても、それを意識する必要性がある。 
 そして、霊とか心とか身体を上手く結びつける働きのあるものとして、呼吸・息(いき)
 がある。 このいき(イキ)と言うのがすごく大事。 ええ、生きている気をイキとも言う
 と思うし、神様の気に近づければ神気(しんき)とも言うと思うし、単純に自分に心す
 る息(イキ)・・・・ これも大事なことです。 
 その息をもって、霊・心・体を活きたものにする、息が仲立ちをする・・・・ そう言うこ
 とが、大事だと思っています。


・ええ、それ(霊・心・体を活きたものにする)をするには、道場だけでは難しいな・・・・
 と言う事です。
 例えば、私で言うならば、やっぱり畑です。 畑には生きたものが一杯います。 
 作物に害を及ぼすものもいれば、食物そのものも天地・光・色んなものと呼吸し合
 って、成長して行く。 そう言うものの営みをね・・・・やはり・・・・なんて言い
 ますかね、良く観て、どの様なものを好んで、どの様なものが害するものになるの
 か・・・・  そう言うものも、日頃から心を込めて、かかわって行く姿、それが、実
 は道場の中の一つの技を深くして行く。
 そのかかわり合いと言うのがね、人と人の係わり合い、人と人が剣を交えた場合の
 気の巡り合い・・・・何等、変わりがないのですよ。 自然のものと自分と対峙して、お
 互いに呼吸をする。 剣と剣を交わらした時に、お互いに呼吸をする。 
 それは大(翁)先生が言われている様な宇宙との呼吸・・・・そう言うものに繋がって行
 くんですね。


・だから、剣とか杖を活きたものにしようとしたら、自分の中で結ぶもの(霊・心・体と呼
 吸)と、外(宇宙、自然)との間で結ぶものがある。 それが道場だけの中でなく、日常
 生活でも、職場にいても、家庭にいても、ええ・・・・同じ様な心掛けでやると、全く変わ
 る。 型が変わる。 そのことを良く意識して下さい。
 生きた剣、生きた杖と言うのは、単なる技術的なものでは無いと言うこと、ですから日
 常生活の中で活かされてない人、合気の・・・大(翁)先生の想いが全然分かって無い
 人、 そう言う人は何時まで経っても生きた杖、生きた剣にはならないと言うこと・・・・
 そのことは、もの凄く最近感じます。 と言うことをまず一つ言っておきます。


・それから杖の素振りをやりますけれども・・・・杖の素振りは20種類ありますよね。
 この20種類を馬鹿みたいに、一つ覚えでは駄目です。
 杖の素振りは一番の基本の基本形です。 ですが、杖の素振りがこれしか無いと思う
 のは駄目です。 いいね、斉藤先生も言われていますけれども、合わせとか組杖とか
 をやると、お互いに・・・・人と人とやると、怪我があってはならないね・・・・
 だから正確にやると言うのが大事、怪我がない様に。 
 もう一つは、やはり禊ですから・・・・その為にも形は正確にやる必要性がある。
 それから、もう一つは、実際に使われても、威力をもつもの、いわゆる武道でなけれ
 ば、ならない。 武術的にも強いものでなければならない。
 ええ、人を殺めるものではないのですが・・・・間違えてはいけないのは・・・・人を殺め
 る力を持てば、人を殺めない(活かす)力も持つと言うことです。
 ですから、いい加減にやっていると、殺めることも、活かすことも、両方とも出来なくな
 る。 だから考え方として、殺める力があるなら、相手を活かす力もある・・・・そう言う
 ふうに理解しなければならない。


・いいですね、ですから基本形は大事。 ですが、その基本のみが正しいと言う考えを
 持つと、もう成長は無い。 いいね。


・で・・・、まず最初に、あの・・・横からね、直接打って来るやつは有りますけれども、基
 本形は縦でやっていますね、例えば、直突き、返し突き、後ろ突き・・・それ、皆、縦で
 やっていますね、
 何故、最初(素振りの基本形)に縦しか無いかと言うと、ええ・・・・実は、相手を突く瞬
 間と言うのは、よくよく考えて見ると縦しかないんです。
 縦に持って行くまでの変化が運足であって、相手を突く瞬間と言うのは真っ直ぐなの
 です。
 自分の心と身体と呼吸を乗せたらですね、自分の進む方向、全ての統治されたもの
 の方向が真っ直ぐなのです。 足は真っ直ぐ行っているのに、突きが横に行ったり、
 づれていてたりしてたら・・・・それは、成り立たんわね! 心身統一どころでは、無い
 わね!
 ええ、ですから、心と身体と霊的なものを全て活かして、活きた杖にしようと思ったら、
 基本は真っ直ぐしか無いと言うこと。
 横からに見えているのは、運足が違っているだけなのです。 

2016年10月19日水曜日

生涯現役の難しさ

・ここで言う現役は、生涯仕事に就くと言うことでは、ありません。
 死ぬまで、人にお世話になることは最小限にし、自分の出来ることは全て自分でし、日々
 前向で充実した日々を過ごすと言うことです。
 睡眠導入剤や精神安定剤を飲まなくても、おおらかに、不安なく、日々生活の中から多くの
 ことを学び、出来ることは実践し、毎日の食事を美味しく頂き、季節の変化を楽しみ、自然
 の流れ中でおだやかに、そして力強く生きて行く姿を、私は生涯現役と呼びたい。


・人は楽な方向へ流される。 人は他の誰かと比較したがる。 人は優越感を持ちたがる。
 人は物の豊かさを求め、もう、これ位で充分とならず・・・・より便利で、より物質的に
 豊かで、より快楽を求める。 そして自分さえ良ければ良いと言うのが基本にある。
 要するに肉体的な喜びを求め始めたら限界が無いのである。 有限な世界で無限を求め
 る、なんとあさはかな、そして恥ずかしい事か・・・・


 大先生は、この様な特長を持った処の通常人を前提にした上で、合気道は真人(まことび
 と)の養成にあると言われた。 そして合気道を人、家族、地域、国家、全世界の宝とせよ
 と言われた。 合気道は人の争いを無くし、人を思いやり、真(まこと)の幸せをもたら
 すものであるとも言われた。
 どうして真人(まことびと)なると、人としての本当の幸せになれるのであろうか?
 真人(まことびと)を目指した人が、利己心の集団に入った時、ぶれずに行けるだろうか?
 利己心の強い人達の心無い言葉で傷ついたり、阻害されてその場におられなくなったり、
 して、生活そのものが危うくなったりしないのであろうか?


・まず、真人(まことびと)を目指す人は、人は変わらないと言うことを充分に理解するこ
 とが大事だと思います。 言い変えると、自ら変わろうと日々努力している人は変われ
 るが、そうで無い人は、言っても変わらないと言うことです。


・一方で合気道の稽古、つまり、武産合気の稽古をやめて、真人(まことびと)を目指した人
 が、通常の人(利己心を持った人で真人を意識しない人)の集団の中で生活し続けた場合、
 真人を目指し続けるのは、極めて難しと言わざるを得ない。
 武産合気は、霊的身体と肉身的身体の結び、霊的心と肉身的心の結び、霊(魂)と心と肉
 身の結びを助ける働きがある。 つまり、日常の生活によって、どうしても利己的な心の影
 響を受けて穢れが生じて、その穢れが霊的な心(透き通った心で神様に通じる心)を包ん
 でしまい、霊を中心とした結びが弱くなってしまうのである。
 霊的な心を発揮するのが霊主心従体属であるが、武産合気道を稽古しないと、知らず知
 らずの内に、体主心従霊属となってしまうのである。 
 求める心も一緒である、純粋に成り切れていなくても、求める心も弱くなって、霊との結び
 も弱くなって、いつのまにか、普通の利己心の強い人になってしまい、真人(まこと
 びと)を目指していたことさえも忘れて行くのである。
 武産合気の想いと技は、霊と体の結びを強くし、心身の調和を取り戻し、真人(まこと
 びと)を目指し続ける為の妙精な気(生命力を強くする気)を強くし、人としての完成を目
 指す原動力となるのである。 
 従って、禊の想いと技である武産合気の稽古を続けることにより、真人(まことびと)を
 求め続けることが出来るのである。


・武産合気の稽古を続けることにより人は強くもあり、武産合気の稽古をしなくなることに
 より人は弱くにもなるのである。
 武産合気の稽古は、通常の日常生活を否定するものでは決して無い。 むしろ逆である。
 通常の日常生活の中で、まがごとに惑わされず、真(まこと)を貫くことにより、仕事の核
 心部分を外すこと無く達成し、信頼を得て、中心的存在にならしめるものなのである。
 武産合気は、霊と心と体の調和を産み出し、自分と言う内側の世界と外の世界の結び
 と調和を産み出し、人としての力を発揮する為にあるのである。


 さー、今日も稽古に励み、活き活きした人生を歩もう・・・・。
 そして、ことあるごとに、省みる、恥じる、悔いる、懼る、悟るをして、真心(まこと
 こころ)からずれて行っていないか確認し、人生の航路を正して行こう。

2016年10月5日水曜日

想いを込める

・何かをする時は、想いを込めてすることが、とても大事だと思います。
 処が、想いはどんどん変わります。 若い時に持つ想いと、年老いてから持つ想いは違って
 きます。 それから、状況によっても想いは大きく変わります。 
 思う様に事が進まず苦難に満ちた日々を過ごす時の想いと、何事も順調で日々希望に満ち
 溢れて真っ直ぐ進む時の想いは、やはり違ってくることでしょう。


・人は小宇宙と大先生は言われる。 肉体の仕組みを小宇宙と言われているのであろうか?
 肉体の生命活動が、大宇宙の生命活動と似ていることから言われているのであろうか?
 それとも、人も大宇宙も神様が創造されたものであるから、人を宇宙の一部と見れば、
 小宇宙となると言われているのであろうか?
 あるいは、人の想いが神心となれば、神様と同じ働き(力)を持つ様になるので、神様が大
 宇宙を創られた様に、人も同じ様に小宇宙を創れると言うことを言われたのであろうか?


 私は、心(想い)と身体を合わせたものであり、更に永遠に生成化育を続けて行く姿を言わ
 れているのだと思っています。 肉身を主とする個優先の心と、真(まこと・魂)を主とす
 る霊的な心があるが、霊的な心を発動させ、霊主心従体属の状態に変える。 そうすること
 によって、穢れの無い小宇宙が自然に出来るので、その小宇宙から神心の想いを大宇宙
 に向かって発っする・・・・
 このことが、人々を覆っている穢れを落とすのに、とても重要な働きをすると思っていま
 す。
 我欲と言う穢れが落ちない限り、大切な気づきのチャンスがあっても、人は気付けないの
 です。
 気付きが無ければ、人は変われないのです。 耳元で、何度ささやいても、我欲と言うブ
 ロックで跳ね返され、その人には、伝わらないのです。


・最初に、想いは変わると言いました。
 しかし、肉身が発する想いと、霊的な奥深い心が発する想いでは、変わり方が違います。
 肉身が発する想いは、基本的に我良しの利己的な想いですから、状況に応じてどんどん
 変わります。 時、場所によって変わり続け、同じ想いは無いと言えます。 
 そりゃーそうでしょう、世の中、一時として同じ状況は無いのですから、自分が一番可愛
 い利己的な想いは、休むことなく変わり続けるのです。 
 広く浅く、どんどん、変わって行く と言うことになります。
 処が、霊的な奥深い想いは、利己的な想いとは全く異なります。
 利己的な心が欲を求めて右往左往するのは、真(まこと)が無い揺らぎから来るのであっ
 て、霊的な想いは、真(まこと)一筋ですから、揺らぐことがないのです。
 霊的な想いは、利己的な想いで右往左往する姿を憐れみ、少しでもその闇が解けて禊が
 れる様に願って、自分以外に向かって、慈愛の想いを発するのです。
 霊的な想いが変わるとしたら、その深さが変わると思います。 即ち、浄化の度合いによ
 って、想いの深さが変化するのです。


・さて、合気道をする時にどの様な想いを込めたら相手を活かし、喜ばせることが出来るの
 でしょうか? そして、自分も喜ぶことが出来るでしょうか?
   ①無理、無駄、むらが無い、大自然の流れを創る様な想いを意識し、その想いに呼吸、
     動きを乗せて行き、相手を誘導して行く。
   ②肉体的な動き、力に惑わされることなく、揺れない奥深い霊的な心を働かせて、相手
     の動き、想いを吸収し、無力化して戻してあげる。
   ③個の力を全体に帰する様に誘導する。
   ④個の持つ争い、淀み、穢れを、自然の流れ、正しき想いによって綺麗にしてあげる。
 以上の様な事を願い想って、気を充実させ、合気道の稽古をすれば、大先生が渡そうとさ
 れた合気道に近づいて行くように思います。


・稽古で得られた真理をどの様に日常生活に活かすか? と言うことも、とても重要です。
 大先生は、合気道は真人(まことびと)の養成にあると言われている訳ですから、稽古に来
 てああ良い汗をかけた、ああさっぱりした、と言うだけでは、同じところでくるくる廻って
 いるだけであって、真人からは程遠いことになります。
 例えば、先に合気道の稽古をする時に、どの様な想いを込めたら良いのかを書きました
 が、これを日常生活に置き換えて見ますと・・・・
   
   家庭の日常生活に於いて、どの様な想いを込めたら、夫婦はお互いを活かし、喜ばせ
   ることが出来るのであろうか?
     ①一日の生活の中で無理、無駄、むらが無く、自然の流れに乗って、相手に想いや
       りを持って接し、前向きな充実した時間を過ごす様にする。
     ②相手が悩んだり、悲しんだり、苦しんだり、ふさぎ込んだりしていても、それに
       惑わされることなく、笑顔と余裕と包容力で迎え入れ、そんなことは人生上、
       大問題では無い事を悟らせ、何時もの笑顔に戻る様に誘導してあげる。
     ③個が肉身として悩むことは所詮、大したことは無く、悩みの元を正しき想いに
       変わる様に誘導し気付かせて、大いなる力の一部になるようにする。
     ④疲れた身体、想い、考えを大きな想い、笑顔、振る舞いで迎え入れ、如何に現在
       の状態が悩むに値しないかを自らの力で悟らせ、新たな一歩を歩ける様に誘導
       して上げる。
   と言う風に、私なら置き換えます。


 合気道の技一つ一つが禊の技であるから、正しき想いを持って励むなら、そこから日常生
 活に活かせる真理(つまり、お宝)に、どんどん気付けると思います。

至誠(しせい)と真(まこと)

・大先生は、合気道は真人(まことびと)の養成にある、と言われた。 また、大先生は、
 至誠・誠・真を使い分けておられる。
 偉い先生は、至誠と言う言葉を好んで使われる。 
 同じ様なニュアンスで、神通合気道(じんつうあいきどう)と言う言葉も好まれているし、
 真人になる為の稽古を日々されている。
 そして、神通合気道と言う言葉は、大先生は使われておらず、偉い先生ご自身が初めて
 使われた言葉だそうで、大先生は恐らく、そう言う想いで合気道をされていただろうと想っ
 て、使い始め、書にも書かれたそうです。


・さて、誠(まこと)と真(まこと)は、どう違うのであろうか? 
 ここからの解釈は、私が勝手に想う 解釈です。
 真(まこと): 
   絶対、唯一であり、神様しか創造できない。 神様そのものとも言えるし、神様の働き
   とも言える。 また、人から見れば、神様に通じる唯一の方法とも言える。
 誠(まこと): 
   相対的とも言えるし、段階的(レベル)とも言える。 
   誠には、程度(如何程)がある。 誠の最高位にあるものを至誠と言う。 
   至誠は真に近いが、真とは本質的に異なる。 だが、真に至るには、至誠と言う段階が
   欠かせない。
 以上の様に、私は解釈しています。


・まがごと、うそ、いつわり の無い人を生じさせ(産み)、育んで行く武道が武産合気とも
 言える。 武産合気の想い(大先生の想い)、技(武産合気の体術、合気剣、合気杖)は、
 大先生が長年研鑽されて産んだ中から、禊の働きのあるものを大先生ご自身が纏めら
 れ集約されたのを武産合気と名付けられたそうです。


・従って、大先生の想いを理解して、日々の生活の中でも実践し、道場に於いては武産合
 気を正確に稽古して行けば、自然と禊の働きが生じ、稽古人は真人(まことびと)に近づ
 いて行くことになるのである。


・有名な先生に何年か習ったりすると
 私は、~先生に何年習ったと言って、あたかも、その先生が伝えようとしたこと全てにつ
 いて習熟しているかの様にふるまったりするが、これはとても恥ずかしい事である。
 まず、第一に有名な先生は、死ぬまで修行され、日々変化されている。 弟子は、有名
 な先生以上に日々研鑽し一時(いっとき)も休むことなく努力しないと、引き離されること
 はあっても、追いつくことはない。 要するに、偉い先生の変化の途中を垣間見た程度
 なのである。
 第二に、同じ先生に習うにしても、週に5回習う人と、週に1回習う人では、最低5倍は
 違うと言うことである。 
 何故、最低5倍と言ったかと言うと、実際は10倍位違うと言うことである。
 何故かと言うと、週に5回習う人は、様々な点で師匠には及ばないことに気付き、自分
 なりに稽古以外の時間で想いを巡らせ、求め続ける姿があるのである。
 週に1回の稽古の人でも、残った時間で想いを巡らせ自分なりに追い求めて行けば
 出来そうに見えるが、そうは行きません。 
 想いを巡らせる前に、自分の現在の状態(どの様な段階・位置にいるか)を知り、何が
 不足しているか気付くことが出来る必要があります。
 要するに、この気付きが出来ないのです。 気付くためのセンサー(感覚)が出来てい
 ないのです。


・至る人は、自分の至らない点を知り、
 至らない人は、自分の至らなさを知らない 
 本当に無知と言うのは恐い事です。
 誰もが、忙しい日々を過ごしています。
 自分自身の体調が優れない、会社の仕事が忙しい、家族との時間が欲しい、介護を
 する必要がある。 様々な理由があって充分な稽古をするのは、難しいでしょう。
 しかし、一方で自殺未遂者が年に50万人以上、引き籠り者が日本で150万人以上、
 精神安定剤や睡眠導入剤利用者が1000万人以上(推定)いて、更に、早々と認知症を
 患う人も数え切れないほどいますし、努力すれば介護を受けなくて済む人も数え切れな
 いほどいます。
 身体が動く内に、真人になるための生活習慣を身につける必要があるのです。
 貧困の人で上記の様な状態になったら絶望感しかないでしょう・・・・
 裕福な人でも、上記の様な状態になったら、何一つ楽しめなくなります。
 以上のことを良く考えて見る必要があります。 誰一人例外はありません。
 大先生は、合気道は真人の養成にあると言われ、もう一方で合気道を人や家族、国家
 の宝にする必要があると言われています。
 大先生は、一度たりとも金銭的(物質的)に豊かになることが人の幸せだと言われていま
 せん。
 物質的豊かになってはいけないとも言われていません。 
 真(まこと)を尽くし、結果として物質的にも豊かになるなら、決してそれを否定するもの
 ではありません。
 要は、真人(まことびと)を目指した生き方が、生涯に於いて、本当の幸せをもたらします
 よ!   と、大先生は言いたかったのだと思います。
 上記の様な悲惨な状態に陥らない様、日々、真人(まことびと)を目指した生活、稽古をし
 たいものである。


・日々の生活(実践)の中で、本当に真人(まことびと)を目指した想い、行動をとっている
   かを、省みる、恥じる、悔いる、懼る、悟る を以って確認しながら進む。
 稽古では、神心(かむこころ)になる為の稽古を目指す。 
 そうすることにより、至誠な状態に近づき、最後には真(まこと)に通じ、神の想いを知る
 ことになると思うのです。

2016年9月18日日曜日

人としての幸せ

・どんな時でも自分の能力を発揮でき、更に生涯に於いて人として、成長し続ける為にはどうしたら良いのであろうか?  
一言で言えば、いい加減さを無くすことである。  
いい加減な心・姿勢はいい加減なものを生み、決して完全なものを生まない。  
では、いい加減さを無くすにはどうしたら良いのか?  
ひとつひとつを大事にし、何に対しても真剣に取り組み、誰の評価も気にすることなく淡々と続けることである。  
この場合の大事な事は、調和の中で極める心構えを持つことである。  
自分だけが良ければ良いと言う様な身勝手な目標は持つべきではない。  
自分が真剣に取り組んだ結果がやがて自分の内部を豊かにし、不安を無くし、透き通るような心で広く深く満たされれば、自然と自分の家族や関わり合う人々を想いやる様になり、喜びと言う宝を生むものです。
日々の稽古や生活に於いて、『省みる、愧(恥)じる、悔いる、懼(恐)る、悟る』と言う視点で自分自身を見つめ、着実に歩んで行く必要があります。

・この様に自分に厳しく、人に優しい生き方をして行けば、結局は生涯に亘って、凛とした生き方が出来、歳をとっても介護を受けることなく、心は充足感と喜びに満たされて過ごして行けるものなのです。 
この様な生活は、気付いたら、即座に始めることが大事です。 
条件をつけたり、何時からと先延ばしする人に、自分の立て直しをした人を私は見たことがありません。
この様な生活習慣は、3歳位から身につけさせる事が大事です。 歳をとればとるほど、過去に染まったものを直して行くには多くの時間を必要とします。

・合気道の稽古で得たもの(真・まこと)は、日常生活で活かされて、ほんものと言えます。

子供の育て方

・生まれたばかりの赤ちゃんは、皆、澄んだ目をして輝いている。
どんな人も赤ちゃんには癒される。
皆、天使のように生まれて来ているのに、何故、小学校の中高年生や中学、高校になると、いじめや陰湿ないやがらせが発生するのであろうか?
問題が起きると当事者(加害者、被害者、指導者、教育者)ばかり問題視されているが、何故、育ててきた親が一番の問題者であることを指摘しないのか、私には理解できない。

・子供に問題がある時は、基本的に親の育て方に問題があると思っている。 子供は悪くない。 親が悪いと思っている。
子供には小さい時から自分で考えさせ、自分に係ることは自分でさせ、やったことには責任をとらせる。 
自主性を育て、自らの判断で行動させるが、親から見て良くないことをしたら、身を呈して徹底的に叱ることも真に大事である。
褒めることも大事だが、褒めてばかりでは、強い子に育たない。 打たれ強く、人に優しく、自分に厳しい子に育てる為には、叱る時は全身全霊で叱ることも大事である。
親の想いを込めて全身全霊で叱れば、必ず子供はその深い愛に反応します。 それが親子、血のつながりなのです。 

・昔のお爺ちゃん、お婆ちゃん、お父さん、お母さんは、優しくもあったが、厳しく怖い存在でもあった。 叱られた時は、反発することはしなかったし、体力差で勝てるかどうかなど考えもしなかった。 本当に悪い時は、ぶたれもした。
小さい頃から、尊敬できる存在であれば、自分が悪い時、そのような人に暴力で立 ち向かうなどあり得ないことだと思う。
悪い時に真剣に身を呈して叱らないから、自分に甘い理屈だけこねる、どうしよう もない子になってしまうのです。

・なぜ、最近の親たちは真剣に叱らないのだろうか? 自分が小さい時に叱られたから、我が子は叱らない。 小さい時に充分な物を与えられていなかったから、我が子、我が孫には多くのお金や物を与えるのだろうか? そんなことでは、自己に厳しく、人に優しい子は育たない。
心の豊かさと、物の豊かさに順序をつけるなら、どちらが大事であろうか?
物は足るを知ると言う姿勢が大事だと思う。 心は澄み切り、人として豊かであり、何事にも喜びを感じて取り組めることが大事だと思う。

・まだ小さい我が子と友達感覚で接することは、私は賛成しない。 子供が自分自身に対して甘かったり、人としてやっては行けない事をした時は、泣いても徹底的に叱ることが大事です。 親の自分が自分自身に自信が持てないからと言って、子供に友達感覚で接することは、良くない。 本当の厳しさは、奥底に本当の優しさが無ければ出来ないことです。 親が自分自身に対しても厳しくすることが、まず第一です。 そうであれば、厳しく接しても、優しく子供を見守れます。子供は、必ずその親の偉大さを語らずとも後ろ姿で感じ取ります。 私は、合気道を通じて子供たちをそのように育てたい。

自然な生き方と和合

・昔のお爺ちゃん、お婆ちゃんは何故生き生きとしていたのでしょうか? 周りから期待されていたから・・ 慣習や日々の生活に於いて何でも知っていたから・・目標があったから・・・大家族の中で中心的な役割を果たしていたから・・・ 色々とあるでしょう。
お祭りも、盆も、正月も、田植えも、稲刈りも・・・毎年、季節の移り変わりの中でめぐってきます。 大きな自然の循環の中でめぐってくるのです。 お爺ちゃんやお婆ちゃんは、自然に溶け込み、生きていたからこそ、無理が無く、控え目でありながら何時も光っていた。
特にお婆ちゃんは、朝、暗いうちから起きて食事の用意もし、田畑も行き、全てをしながら、食事は最後にし、食後のお片づけもし、そして最後にお風呂に入っていた。
たまに、およばれがあって、上げ膳据え膳の時は、本当に申し訳ないと手を合わせて感謝の気持ちを心から現していた。
また、日の出の太陽に拝み、お月さまに拝み・・ 日々も、自然の中に溶け込んで生活をしていた。
何時も何時も周りの家族の為にしているのに、死ぬまで一度も不満を聞いたことが無かった・・・
私はこんなお爺ちゃん、お婆ちゃんを尊敬している。

・合気道で自然と一体になると言うことは、無意識の内に、自然の中に溶け込み、自然な動きで無理が無く、心奥底で相手を含む全体と溶け込んだ時の状況を言うと私は思っている。
このような状態になるためには、心を正さない限り、永久に無理である。

・合気道の和合は、体の和合ではないと考え、私は稽古に励んでいる。

・体主心従霊属から霊主心従体属の状態に転じる事が出来たら、その時、相手を含む大宇宙・大自然(神)との一体化がなされ、本当の和合が具現化すると思います。 この時の状態は、神人合一の状態であり、技はすべて神技となる。
従って五感を通じた厳しい稽古を続けたとしても、精神面が未熟で悟りが得られなければ、翁先生のような神技は出来ないと、私は思っています。      

昔のお爺ちゃん、お婆ちゃんに学ぼう

・永い人生を過ごし、最後に幸せだったなーと思える為には、悠悠自適となった時の過ごし方が大きく影響すると、私は思っています。
また、もし合気道に於いて心(精神)の面を追及して稽古に励めなかったら、これほど長く合気道をし、更に、住吉塾を構えることは無かったかも知れません。
翁先生や直弟子の方が、翁先生が大事にされたことを残されていなければ、今になっても黙々と一人稽古をしたり、精神的な深さを求めたりしなかったと思っています。

・ここでは、何故昔のお年寄りが元気だったか、素朴に見てみたいと思います。 物が豊かになり、生活が便利になり、核家族化することにより、知らず知らずに精神的に貧しく、そして、孤独で不安な生活に落ち込んで行く理由が見えてくる様に思います。

・昔のお爺ちゃん、お婆ちゃんは、何時も早起きで、元気で、何でも知っていた。
子供には恐い存在だったが、一番頼りになった。
何時も忙しく、動き回っていた。 お爺ちゃん、お婆ちゃんしかできないこともたくさんあった。
お祭り、正月、盆の時のお寿司、お餅、様々な料理、飾り付け お爺ちゃん、お婆ちゃんの出番だ。 朝早くから起きて、楽しそうに動き回る。 活気もあった。 子供であった自分もワクワクして来て、何か楽しくてしょうがなかった。
畑や田も、お爺ちゃん、お婆ちゃんの活躍場所だ・・・田植え、稲刈り、家族総出でするが、やはりお爺ちゃん、お婆ちゃんが中心だった・・・ 田畑で皆で食べるおにぎりは、特別においしかった・・

・この様な生活をしている田舎では、寝たきりのお爺ちゃん、お婆ちゃんは、近くの何処にもいなかった。 また、眠れないからと言って睡眠薬を飲んでいる人なんて聞いたことが無かった。
医者や学校の先生を、お爺ちゃんやお婆ちゃんは先生さまと呼んで、特別に尊敬していた。 それから、お寺の和尚さんも尊敬していた。 よそ様に迷惑をかけてはいけない・・・と、何時も言っていた。
お医者さんは、どんな悪天候でも往診に来てくれた。 子供には恐い存在だったが、なるほど先生さまと言われるだけのことは、あった。

・眠れないなど・・・何かがおかしい・・・眠れなくする元があるのが、おかしい・・・
眠れなくするもとを正す必要があるのでは・・・?

・さて、定年を迎える頃は、夫婦共に身体にガタが来る頃でもあります。 夫、ないしは、夫婦で働いている内は、お互いに生活リズムがあって、問題なく過ごせるかと思いますが、定年となり何時も一緒となると、うっとうしくなる夫婦が圧倒的に多くなるのが通常です。
身体にガタが来て薬に頼りがちになり、更に、気分を晴らす処が無くなってくれば、先の生活は見えています。 このころになると気力も急に衰えてきます。
40代、50代の頃に60歳以降の自分を想像できないのが問題を大きくしているのですが・・・

・確かに今は、昔ほどお爺ちゃんやお婆ちゃんの活躍する場所は、無い。 とくに都会では無い。
しかしながら、老人介護の世話を受けず、認知症にもならず、死ぬまで元気で自分がしたいことをすることは、出来ます。
おいしい食事をして、気持ちよく寝て、多くのことに興味を持って、生活を楽しむ・・・その為には、健全な精神と健全な身体が必要です。
40~50代で、合気道の稽古を自分の生活リズムに取り入れ、そのリズムで老後生活に入れば、楽しい生活が待っていると私は思っています。 それ故、心が豊かになる元を合気道の稽古時に話しているのです。
禊の合気道を志せば、自然に豊かになると、私は思っています。

・禊を難しく考える必要は、ありません。 身体のよどみをなくし、心を正す。 もとを正すのです。 心正しからずや技また正しからず、技を学ばんとするものは心を学べと、偉い先生が言われた。 その通りだと思います。 人を幸せにするのは、心の向け方(持ち方)ひとつです。 幸せは外から来るのでなく内から来るのです。 それに気づける自分を創り上げるのです。 心が明るければ光を放ちます。 ですから、心の正しい人の技は光るのです。 そして、周りも癒されるのです。 物や道具で豊かになることも必要ですが、それを利用する人の心が澄んでおり、何時も光を放つようでないと、物や流行に惑わされ、心が安らぐことは無いでしょう。

・心を正すとは、どのような状態になれば、正した事になるのでしょうか?
見える世界(物の世界・個を中心とした世界)から、見えない世界を大事にすれば良いのですが・・・

祖父母、両親の責任

以下は日本の数字である。
---------------
・年間自殺者: 3万人前後/年 


・自殺未遂: 53万人超/過去1年


・15歳~39歳の引きこもり人数: 54万人 → 100万人(日本人全体の推定)


・成人の4人に一人は過去に自殺したいと思ったことがある。 
 そして、5人に一人は身近な人を自殺で亡くしている。


----------------
・日本人全体では、常に100万人位が引きこもり、毎年50万人前後の人が自殺未遂を繰り返し、 そして毎年3万人前後が自殺で亡くなっている。 
 自殺やひきこもりと言う極端な状況に陥らなくても、日々、不安な精神状態におかれ、睡眠導入剤や精神安定剤を利用している人も数え切れないほどいるであろう。


・これは、一体誰の責任であろうか? 
 国家(政治家、行政)や地方自治体が悪いのであろうか?
 教育関係者が悪いのであろうか?
 それとも、身近な祖父母、両親が悪いのであろうか?


・勿論、国家、地方自治体、教育関係者にも責任がある。 
 しかし、一番の責任者で悪いのは、子供を日常的に育てていて身近にいる処の祖父母、両親
 である。
   ・何故、誉め育てるのか? 
   ・何故、機嫌取りをするのか? 甘やかすのか?
   ・何故、駄目な時は徹底的に叱らないのか?
   ・何故、自分で判断させ、実践させ、責任を取らせないのか?
   ・何故、内面の強さを養わないのか? 
   ・何故、人との競争をさせ、自身への甘さ、いい加減さ、楽さ加減さを戒めないのか?
 子供がしたいことをさせれば、そりゃー子供は、活き活きするさ・・・・
 そんな顔を見て喜んでいる祖父母、両親に聞きたい。
 一体お子さんが逆境に阻まれ思う様に行かなくなった時、どの様に乗り切れと言うのですか?
 その時は祖父母はこの世にいないかも知れない。
 年老いた両親も逆境に立ち向かえないお子さんを見て呆然とするだけでしょう。
 30代~40代の引きこもりは、両親の年金を頼りに生活している人が多いと言う・・・・
 そして、両親が亡くなると一気に生活に窮すると言う・・・・
 これは、全て祖父母や両親の育て方の問題である。
 目先に囚われ、子供に生きる強さを養わせなかった責任が、長い年月をかけて一気に押し寄
 せ、どうにもならない状態に陥るのである。
 合気道の稽古では、この生きる強さ(生命力)を養うべく日々努力しているのであるが、
 この想いは多くの祖父母、両親には届かない。
 真(まこと)に残念無念であり、言葉がない。
-------------------

日本の祖父母、両親、良く聞いて欲しい。
自殺未遂者よ、引きこもり者よ、自殺しようとしている人よ、睡眠導入剤を飲まないと寝れない人よ、精神安定剤を飲まないと安心できない人よ良く聞いて欲しい。
何故、もっと命を大事にしないのか・・・・何故、生きていることを満喫しないのか?
もっと、もっと強く生きて欲しい。
もっともっと自分の弱さに打ち勝って、貧しくても、自分の人生を歩んで欲しい・・・・
人に誉められて生きがいを見つけるのでなく、今・ここに生きている事に感謝し、目の前の全ての事に全力でぶつかって行こう・・・・ 一生懸命すれば、必ずそこに喜びが生じ、生きている事に感謝する様になると思う。 そして生かされていることにも感謝する様になると思う。
表面的(肉体的)強さや活き活きした姿を良しとして求めるのでなく、内面的な強さを養い、生きる強さ(生命力)を養って欲しい。 

心を変える難しさ

・心変わる → 行い変わる → 習慣変わる → 人格変わる → 運命変わる
何度も、何度も道場で言ったから、子供達も皆覚えた。 だが、心が本当に変わり、行いが変わって、習慣まで変わることは、余程のことが無い限り、通常人には難しい。


・どうして、人はこれほど変われないものであろうか・・・?  人は便利な方へ流れ、楽な方へ流れて行く。 自分のためになると思っていても、日々努力を必要とすることはなかなか出来ない。  どうしたら、心が変われるのであろうか・・・?


・お爺ちゃん、お婆ちゃん、お母さん、お父さん、先生、指導者 等に言われて、やる(やらされる)ことは、まず続かない。 強制力が無くなれば、やらされていることは自然消滅する。  やらされている事が、例え、その子の為になっていても、しなくなる。
要は、本人が自分の意思で心を変えない限り、行いは変わらないのである。 誰かにやらされている状態では、やらされている事に真心が無い。 真(まこと)の心の無い行いは、必ず消滅する運命にあるのである。


・では、どうしたら心が変わるのであろうか?
あることを想う→この想いは、神様に知られても恥ずかしくない想いであろうか?
あることを決断する→この決断は、自分の為だけでなく、人の為になることであろうか?
あることを行う→喜びや希望を渡せた(与えた)であろうか?
この様に何時も何時も、自分自身を省みて、神様の想いに届かない自分を恥じ、至らない自分を悔い、なかなか成長しない自分を懼れ、そして新たな努力をして少しでも神様の想いに近づこうとする。 この繰り返しが人の成長に欠かせないことを悟る。


・幼年期、壮年期、老年期 どんな時点でも、省みる、恥じる、悔いる、懼る、悟る を事ある毎に行えば、人は真人になる為の成長をするのである。


・月曜日の武器技自主稽古に参加している小中学生に、
『毎日、家で箸か定規を使って、剣の素振りを5分、杖の素振りを5分する』
事を求めた。
これによって何が得られる(変わる)かと言うと
  ①軸がぶれなくなる
  ②運足が正しくなる
  ③脇が締まり、膝に余裕が出来る様になる
  ④体重移動がスムーズになり剣や杖に自分の重さを乗せられる様になる
  ⑤呼吸力、イメージ力がつく
  ⑥剣や杖の素振りが正確になる
等が変わる。
だが、もっともっと大事なことが身につく。
  ①時間の大切さがわかる。
  ②継続力がつき、習慣が変わり、人格が変わることを実感できる。
  ③目に見えない深さの大事さ(大切さ)を感じ取ることが出来る。
  ④誰も見ていない、誰も褒めない処での努力の大切さ、真の喜びを感じられる様になる。
  ⑤心身共に強く、大きく育ち、おおらかで人に優しく、自分に厳しくなれる様になる。

田舎に帰って思う事

 久しぶりに田舎に帰ってお墓参りをしてきた。 そして、帰る時に小学生時代に銀座通りと呼ばれている処へ行って見た・・・・9割のお店が閉まっていた。 その内、店も家も無くなっていた処が3割はあった。
当時百貨店と呼ばれ、従業員やお手伝いさんが何十人もいたお店は無くなっていた・・・・町で一番の料理屋さんで、先祖代々から繁盛していた駅前の大きなお店も無くなっていた・・・・百貨店のおぼっちゃま、料理店のお嬢様、私と同級生だったが、今はどうしているのか・・・・


昔の田舎は、川も田んぼも見渡す限り綺麗だった・・・・神社には、祭りがある度に、人々が集まった・・・・夏には何時も盆踊りのはやしが聞こえた・・・・太鼓や笛の声が聞こえ始めると、祭りが近い事を知った・・・
そんな頃は、銀座通りは人であふれ、運動会やお祭りには一家総出で出かけた・・・・。
食べるものは今ほど豪勢では無かったが、人は皆豊かであった・・・・人を信じた・・・
家に鍵などかける人はいなかった・・・・お金が無ければ、貸し合い、夕食のオカズは隣近所で分け合ったことも多かった・・・・


昔には昔の良さが一杯ある・・・だが、世は常に変化する・・・変化は若者だけに訪れる訳ではない・・・・歳をとって、自分の想いは大事にするにしても、世の変化に流されること無く、世の流れを受け入れながらも、自分の変化を成長に変えて行く勇気も必要だと思う。
昔を懐かしみ、変化を受け入れないと、何時か日々の生活さえ活気を失い、生きることも辛くなると思う。 ぶれることなく、昔の自分にこだわらず、前へ進もう。 そうすることが実は一番充実し、一番の心の安定をもたらす様に思う。 とどまることが不安を呼ぶ様に思う

お爺ちゃん、お婆ちゃんの役割について

祖父(お爺ちゃん)、祖母(お婆ちゃん)の役割について


戦後、核家族化が進んで、日本の昔からの良い伝統が随分と変わってしまった様に思う。
祖父(お爺ちゃん)、祖母(お婆ちゃん)の役割(働き)も随分と変わった様に思う。
私が知る昔のお爺ちゃん、お婆ちゃんは、優しい中に厳しさがあった。 特に厳しかったのは、よそ様には絶対迷惑をかけない、よそ様から後ろ指をさされない、 と言うことだった様に思う。


今のお爺ちゃん、お婆ちゃんは、戦前生まれでも戦後の影響を大いに受けている。
昔の大家族の頃のお爺ちゃん、お婆ちゃんは、威厳もあったが後ろ姿を見ているだけで、学ぶことが多かった、自分のやり方を強く強制をしなかったが、周囲の者は自然に学んだ。


処が今のお爺ちゃん、お婆ちゃんは、一体どうなってしまったのか?  年老いたら、介護を受けるのは当たり前・・・ 公共からのサービス、割引、支援を受けるのは当たり前・・・・ 権利ばかり主張する・・・ 小さい子は、一体何をお爺ちゃん、お婆ちゃんから学ぶのか・・・?
歳をとりたくないものだ・・・・・若さを満喫しよう・・・・ こんな風になってしまう・・・
寂しい、残念、無念・・・と思うのは、私だけであろうか・・・?


 当道場でも、お爺ちゃん、お婆ちゃんの弊害が出ている・・・・
孫には苦労させたくない、孫が叱られている処は見たくない・・・そして、何時も褒めてくれる処、どんな時もニコニコしている処 を良い場所として、移って行く。
何とも情けない・・・お爺ちゃん、お婆ちゃん、親が死んだ後、どうやってこの子供達は難局を乗り越えて行くのか・・・? どうやって、自分の家族を守っていくのか・・・? 上司に叱られたり、周囲から注意を受けた時、どうやって対応して行くのか?
本当に罪深いお爺ちゃん、お婆ちゃんが増えてきた。
戦後、日本の一番の問題である。


また、自分のやり方を孫に強制するお爺ちゃん、お婆ちゃんもいる。
子供にはお母さん、お父さんがいる・・・・両親が子供の責任者であるのに、何故、お爺ちゃんやお婆ちゃんは自分のやり方を孫に強制するのか・・・・?
前述の甘さとは全く逆だが、これも大いに反省すべきである。
お爺ちゃん、お婆ちゃんは自分の後ろ姿で見本を示すべきである・・・・自分の育った環境をベースに、自分のやり方や価値観を孫に強制するのは、基本的に間違いである。
要は、見守る忍耐力が必要なのである。

私が勝手に想像するあの世の世界

以下は、私が勝手に想像するあの世の世界である。


・あの世は、波動の世界。 しかし、この世の様に時間と共に広がり、進むような波動では無い。
波動が浮かんでいると言う感じである。 この波動は同一波動はお互いに引き寄せる。 引き寄せると言うよりは、同じ波動のものが同じ場所に留まると言った方が正確だと思う。
この波動は浄化具合(まこと具合)によってのみ移動が可能であり、移動は自分の意思で無く、自然に動く。 つまり、浄化レベルによって波動が変わり、波動が変わる事によって、存在場所が自然に定まるのである。 浄化具合(まこと具合)と言うのは、想い・意思の浄化レベルを言うので、あの世でこの浄化レベルを変えると言うのは大変難しい事である。


・あの世では、自分の考えたことが即座に実現する。 処が、この世の様に誰も自分のことを注意したり指導したりしてくれない。 例え、してくれても、拒否も自由で、聞きたくない、知りたくないと思えば、全て拒否できるのである。 他の人(霊)を強制出来ず、自分の好き勝手なことが出来るとしても、それが他に全く影響を及ぼさないとしたら、とんでもなく恐ろしい世界の様に思う。


・波動の世界なので、自分より密な波動の存在は感知できない。 つまり、浄化の進んだ霊(波動)や神様の波動は感知出来ない。 逆に密度の高い波動は、密度の低い波動の存在、想い、考えは全て分かる。 何故なら、存在、想い、考えも全て波動となるからである。


・より浄化の進んだ場は、より強い光を放つ。 従って、澄み切りが進んで浄化レベルの高い霊が行くところは、より強い光の場(次元)に行くので、浄化レベルの低い霊はまぶしくて、そこには行けない。 まぶしいと言うより、浄化の進んだ場の微細波動で荒い自分の霊波動が分解されてしまうと考えた方が良いかも知れない。 


・自分本位で我の強い人が死んだら、その人は浄化が全く進んでいない処か、浄化の重要性さえも認識していないので、ほぼ、無限にその場を漂うことになる。 しかも浄化が全く進んでいないのだから、暗い光しか放つことしかできず、居場所も殆ど光の無い世界である。 そして周囲に現れる霊は全て自分と同じようなものを大事にし、自分の事しか考えない霊だから、永遠に修羅場が続くのである。 何と恐ろしい世界であろうか・・・・


・やはり、この世で散らない、まこと一輪の花を咲かせることがとても大事だと思う。

一厘の仕組み

以下は引用した神示の一部と私が勝手に解釈した内容である。


神示に「一厘の仕組み」と言われるものがある。
・ざからこ度は三千世界を元つ仕組みにタテカエ、タテナオス由、元つ正位正順の陰陽に、逆転致す申して居るのぞ。  逆位の体主心従霊属に魔釣る世を、正位の霊主心従体属に真釣る世にタテカエ、タテナオシ一挙に致して、万古末代滅びぬ嬉し、嬉しのミロクの御代と致すのじゃ。
マコトが一番でござるから、マコトを手にして下されよ。 ケガレ多き身、思えど、残るマコトの一厘で何かの神のご用をさせくれと、ケガレたとは申せ、ひそかに思うがマコト日本の人民様じゃ。
この方それを知りて居る由、汝が愛しいのじゃ。 何かのご用に使うてくれ申す者、一人も余さず使うてやるから、残るマコトの花一輪、何かに付けて見事咲かすが汝の務めじゃ。 一厘、磨きだされて見事、水晶と成して見なされ。 この方しっかと見届け致して、アッパレご用に使うてやるから、ガンバリ成されよ。 『火水伝文』より引用

・三個の神宝、真澄(ますみ)の珠、潮満(しおみつ)の珠、潮干(しおひる)の珠
潮満の珠は、厳(いつ)の御魂である。 「いづ」は泉の「いづ」である。 泉のように清らかな神水が無限に湧出する神宝である。 これをヨハネの御魂という。
潮干の珠は、瑞の御魂である。また、キリストの御魂という。 「みづ」は「みいづの御魂」という意味である。 みいづの御魂は、火の活動を万有に対して、無限に発射する。 世界を清める活用がある。
真澄の玉(珠)はあらゆるものを照らし、この世を浄化へと導くもの。 (説明は、他より引用)
いずれの宝も、世界の終末に際して、世界改造のために大神が御使用になる神宝である。 これを使用する神業が、一輪の秘密である。
国常立尊は邪神から守るために、冠島・沓島に三個の神宝を隠したのだが、実は島には珠の体のみを納めておき、珠の精霊はシナイ山の山頂へ、誰にも知らせずに隠しておいたのである。
『霊界物語』より引用

 ・これより先、新しき世に至るまで暫しの年月、辛抱肝心ぞ。
人民様、程度の差こそあれ業火の死遂げる者、生き残り塗炭の苦しみ受ける者、二つに一つになりたぞよ。 人ごとでないぞ。 汝も同じぞ。 悪人、善人らちもない。(区別なし)  死に行かれる者も、残し置かれる者も聞くのざぞ。 この度は地球最後の転生の時、天意転換の時ぞ。それゆえの厳しさぞ。 全人類、己(おのれ)が囚われ積みしケガレ、一点の曇り無きまで祓い清めせなならんから、数多(あまた)の民、死ぬる者も、残りし者も相等しく阿鼻叫喚の地獄の如き洗礼をその身に受けねばならんのぞ。 女、子供辛きこと哀れであるが、一人とてこれ避けること出来んから、早よう魂磨きてくれよと申して来たであろうが。
遅し、神、既に動きたぞ。
浮かれ暮らす人民様、この度のこと取り違えあれば、末期の不覚となりぬるぞ。 しっかと世情見ていて下されよ。 現界の荒ぶる現象、いよいよ混乱狂気となりておろうが。 正邪、背徳、驕奢の膿、様々なる形なさして世に噴出させておろうが。 これ予兆ぞ。 既に世界はウラにて一つになりたぞよ。
真中を過ぎし不測の時、世界の悪勢一挙に入り来たり、全土を一つと七つに分け占めて、修羅の地獄と化さしめん。 これ、こたび初めの神仕組みなり。 これ日本の事ぞ。マコトぞ。 仕組みありて、真先に日本祓い清めせなならんからぞ。 国、土台から破壊され、ケガレし権力潰えしも、外なるケガレ逆巻きて内なるケガレ祓うのぞ。 私有財産壊滅し、衣食住にも窮迫し、国民同士の戦(いくさ)ある。
人と獣(けもの)との分かれ目ぞ。 ケガレしものの消ゆるまで、三歳苦難の道行きぞ。
こは神仕組み神ハタラキなれど、汝等人民様の招きしことなるぞ。 汝の欲心甘やかし来たりたであろうが。しただけの事は拒めぬぞ。神恨むでないぞ。 しかあれ、人民様の苦しき死、残り苦しむ様、望みてないぞ。 既に遅けれど、このワケ、縁ある者に伝え置く。 この度死ぬる者は、このワケ聞いて肚(はら)に入れ、生き戻れるように死んで下されよ。死んでも頑張りて下されよ。 残されし者も同じぞ。死に急ぎなさるなよ。よくよく頑張りて下されよ。 よいな、三年の間ぞ。 三年の間、汝等の心魂、修羅場と化せしその地にて、耐え難きを耐え、魂磨くのぞ。 死して逃れんと欲っせしも、異界にて万倍の地獄飲まなならんのぞ。 神、頼むぞ。 汝等蒔いた種なれば、こらえにこらえて三真釣り持ち行け。 聞く耳出来たか。神、急ぐのぞ。 仕組み始まる前に聞いて下されよ。 
ここ数年の事ぞ。
仕組み始まりたれば三年の間、神一切手出しせぬのざから、このフミも手に入らんようになるのざから。 イノチある内に聞いて下され。 「そは何ゆえなりや、、、と」。  汝、初めて真理問うのぞ。 神、嬉しいぞ。
その心魂やよし。 お前様はこれまで、真理に向かいしこと希薄にして、この最後の時まで不明で在りしこと、はなはだ遺憾なれど、その身さかれし前に向きしこと稀有にして縁なり。
さればその心魂、最後まで持ち行きて下されよ。 三真釣り持ち行く者なれば、三歳苦難の間でも呼べば助くる、手出しする。 よいな、
 終わりと成すも始めと成すも、汝次第ぞ。 しっかと聞いて肚(はら)に入れ、よくよく頑張りて下されよ。  死に行くワケ、語りて聞かすぞ。 生き残されしワケ、語りて聞かすぞ。 新しき世も語りて聞かすぞ。  神、一人でも多く戻り来たりて欲しいのぞ。 よう戻りて下された。 永きご苦労の旅でありたが、神、よくよく汝の元つ光輝知りておる。  神、汝が可愛いのじゃ。 もう離れんでくだされよ。 神頼むぞ。
こ度このフミこの時出すは、汝等早うスミキリて、神ごころ戻るを促すがためなるぞ。
こ度の大変、身魂磨かれ居れば、スミキリて神ごころ近くありせば、何処に居ろうが、何が起ころうが、ご心配まったく無用なるを知りて欲しいからぞ。
これよりこ度の大変段々に語りて聞かすが、コクな事も聞かさならんから、神も辛いが、後々汝等善きようにしてやるから、マコトスミキリて神のお手伝いできるよう、 勇んで励みて下されよ。 死ぬる者も生き残されし者も、生死一如なるを知りて下されよ。
こ度は生死超えたる仕組みなるが由なり。 死しても頑張りて下されと申すもわかるであろうが。 こ度のこの文、マコト日本の人民様に伝うるフミぞ。
『火水伝文』より引用


以上は、神示の一部である。
以上を読まれた方は、どの様に思われたでしょうか? 
以下は私の勝手な解釈と想いである。

 火の構え(働き)と水の構え(働き)によって、あらゆるものが生じた。 そして生じたものには真善美が核として組み込まれた。 (真善美が組み込まれたと言っても、真があれば善と美は生ずると自分は思っているので、真が組み込まれたと言っても良いと思っている)
始原の時、快欲によって体主心従霊属が生じ、長い年月を経て、今の様な我欲が支配する乱れた世界になってしまった。 物欲、権力欲、名声欲、支配欲・・・個が欲するものが世界を覆ってしまった。 どうやったら、一体元の真(まこと)の世界に戻るのだろうか?
結局、産み出したのが、火と水と真(まこと)だったので、顕界に於いての大掃除は、火攻め、水攻め、真(まこと)攻めが行われると自分は思う。 火攻め、水攻めをしのいだとしても、最後の真(まこと)攻めは、各自が真(まこと)心を発揮しない限り救われないのだから、真(まこと)を持たない限り消滅すると思う。 幽界も消滅するので、もう行き場所が無くなるのである。 このことは、死んでも死に切れないと言うことになり、その苦しさは、自分には想像できない。 言ってみれば、無限の苦しさである。
今こそ、真(まこと)を現す努力をしよう。


何故、痴呆症がこれほど増えているのだろうか? 何故、これほど介護が必要となっているのだろうか? 老人が増えた、病気になっても進んだ医療で長生きしてしまう、福祉制度の充実で衣食住の心配は無くなった(貧しくても)・・・・この様な理由は、表面上のものだと思う。
人間は歳をとっても、自己のいい加減さに厳しく立ち向かい、人生の目標を達成(人としての完成)するために、日々努力を重ねるならば、これほどボケ老人が増えることは無いと思う。
歳をとってからの無目的な人生ほど人をボケさせるものは無いと思う。
元々、個の属性としての欲は、自己保存(種族保存)、物欲(金銭欲)、名誉欲、権利欲、食欲等であり、個の肉体的特性が欲するものである。 が故に、体主霊属と言われる訳でもある。
この体が元気なくなり、衰え始めたら、当然欲も比例して無くなって来る・・・・そうすると、無目的になり、何も受取ろうとしなくなる。 こう考えてみれば、歳をとったらボケるのが自然であり、むしろボケない方が自然に反すると思う。
では、どうしたらボケないで、そして介護などで人や国家にお世話にならないで済むかと言えば、やはり個の属性から離れた目的を持った人生を歩む必要がある。
それは、やはり真人(まことびと)を求めることだと思う。 
上記の一厘の仕組みを本当に知り、理解できるならば、ボケる暇など無い。 ボケたから助かるかと言うと、全く逆で絶望的だと思う。 この世の悪人でも最後に気付き正しい方向へ進むよう努力するなら、死んでもまだ救われる方向へ進むが、ボケたら進む方向さえ分からず、体主霊属のままで、何の疑問も持たず死ぬ訳だから、もう、消滅することしか残されていない。


昔の人が何故ボケないで済んだかと言うと、まず、季節の中で生きた。 自然の幸を旬として頂き、神社でお祭りをし、年寄りも子供も一緒にその役割を果たしながら、グループとして元気があった。
年寄りが大きな流れとしきたりの中で重要な役割を果たした。 祭りの中でも、日々の生活の中でも、何時も先頭に立っていた。 朝日を拝み、お月さまを拝み、日々の自然の恵みを頂き、朝から晩まで年寄りは働いた。 こんな生活をしていたら、眠れず睡眠薬が必要になる等考えられない。
老後施設など必要無く、自然が老人の住み家なのである。
こんな生活をしていれば、何も自然に感謝しろと言わなくても、ごく自然に心奥底から自然に対して感謝の気持ちが湧き出てくるものだ。
昔の老人は真(まこと)一筋等と言う言葉を知らなくても、寺の住職さんの法話を夜になると聞きに行った。 そして、ありがたいお話を聞いたと言って、自分の宝物の様にして生き方に活かして行った。 自然と共に生き、自然に感謝し、周囲の人々に感謝し、生きている限り一日一日を大事に生きて行く年寄りに一厘の仕組みなどを話す必要はないと自分は思う。

私が勝手に想う神様

以下は、私が勝手に想う神様です。


・元ツ御祖は、唯一絶対の存在と言われているが、本当にそうだろうか?
我々が存在する顕界から見た場合は、我々を存在させた(創り出した)元ツ御祖は、唯一の存在だと思う。だが、私は元ツ御祖的存在は他にもあると考えている。人間が自分以外にも存在する様に元ツ御祖も、同じ様な存在があると考える。 顕界の個(物体、人)は、そのままの荒さでは次元を超えられないように、自分を創り出した原点を超えられないから、唯一絶対的存在と捉えているのだと思う。


・元ツ御祖は何故、天界、霊界、顕界を創ったのであろうか?
元ツ御祖が複数存在するとしたら、やはり元ツ御祖にも何らかの成長を求められるのだと思う。
顕界に於いて存在するもの全てに成長が求められていると言うことは、顕界を創り出した元ツ御祖自身に成長を求められているからだと思う。 何故なら、天界、霊界、顕界全体は、元ツ御祖が創り出したのだから、元ツ御祖そのものと言えるからである。 成長(浄化・真の度合い)のレベルに応じて元ツ御祖の分け御魂(分身・人間で言うなら細胞や神経)を各層に存在させ、それらの成長を通して、自分自身も成長しているのだと思う。
要するに、分け御魂を与えた全ての存在が元ツ御祖から見たら、自分自身なのである。 それらの全てが成長すると言うことは、自分自身も成長すると言うことになる。


・何故、最初に体主霊属の存在を許したのであろうか?
霊のみの真善美だけでは、成長スピードが遅いのか、成長に限りがあるのだと思う。 そこで真反対の個を生じさせ、体主霊属によって生じる様々な問題点、悲哀を経験することによって、本来どうあるべきかを学び、成長しているのだと思う。  要するに価値観が真反対の成長を見て、個の属性を持たない自分達の成長に役立たせているのだと思う。


・何故、顕界に存在するものすべてに分御魂を与えたのであろうか?
一言でいえば、自分の細胞(自分の神経)の一つとして分け御魂を与え、全ての経験を自分(元ツ御祖)の成長の一部とする為であると考える。


・神様は何のために存在するのであろうか?
霊主体属であろうと、体主霊属であろうと、どちらも純粋であれば、その方向により成長させる為の働きをする為である。 どちらの方向であろうと、発展・成長して行けば、良い点・悪い点が明確になるからである。


・神様は真善美のみを支援するのであろうか?
神様には、善の神様と、不善の神様がいる。
善の神様は、真を大事にする人を支援し、不善の神様は物(個)を大事にする人を支援する。
従って物質文明が発展するのは、不善の神様が支援するからである。


・まだ見える世界(顕界・物の世界・個が存在する世界)が生じていない頃の世界は天界(神界)のみであった。 天界も縦方向(下向き・次元が荒い方向)に展開していて、最初の層には天之御中主神、神産巣日神、高御産巣日神、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじのかみ)、天之常立神の五柱があらせられるが、この神々は性別が無く独神で、原点(出発点)である元ツ御祖から産み出された。


・もう一つ下の層(顕界に一つ近い層)に伊邪那岐命、伊邪那美命等男女神が10神産み出された。 この10神が元ツ御祖から産み出されたのか、一つ上の層の五神によって生み出されたのか分からない。 男女神対で働きを生じるのが原則である。


・更にもう一つ下の層に国之常立神、豊雲野神が産み出されたが、独神であるが男神である。
天界から顕界に現れた最初の神様である。 この神様も元ツ御祖が産み出されたのか、上の層の神様が産み出されたのかは分からない。 伊邪那岐命、伊邪那美命が国産みをされた時に最初に現れた神様である。 豊雲野神様は、直ぐに隠れられた。


・伊邪那岐命、伊邪那美命は、顕界を創り出すと共に、顕界を司どる八百万神も合わせて創り出された。


・神様とは、結局、働きのことを言う。 どの様な働きをするかによって、神様は分けられ、神産みをする時、男女神が協力して新たな神を産めば両働きの神が生まれるが、男神や女神が一柱で神を産むと片働きの神が生まれる。
見える世界では男女の結びで新たな生命が生まれるが、見えない世界では、新たな働きを産み出そうとすると、気の交流(結び)で行われる。 気の交流は右廻りと左廻りの交流で行われ、どちらが主体となって働きかけるかによって、正しいもの(正しく働くもの)が生じるか、そうでないか(ながれる)が決まる。


・神様も人も元をたどれば、元ツ御祖が出発点(原点)である。
元ツ御祖 → 天界(神界)の神様 → 霊界の神様 → 顕界の神様 と神様には、それぞれの層を司る神様がいる。 当然ながら、これら神様は霊主体属である。 神様は全て目的を持った働きである。 縦軸(次元)で見ると上から下への流れである。
一方で顕界と共に生じた個は、体主霊属で本来の霊的力は埋もれている。 このままでは、霊的力は時間と共に失われて行く。 霊的力を発揮するには、真一筋になるよう浄化して行く必要がある。 完全に真を失うと消滅する。 浄化が進むと、霊主体属に変わるが、その上で更に霊的成長を計る必要がある。 縦軸で言うと下から上への流れである。


・大きな流れは上記の通りだが、この上下の流れは、神様直経の流れと言えるかも知れない。
これ以外に上から下への流れがある。 それは、幽界とか霊界(多分、霊界でも下の方の層)での出来事が顕界に現れると言うことである。 それはそうであろう、何故なら魂(霊)は生き通しなのだから転生すれば、霊界の状態が現れるのが当然であろう。 また、霊界では過去・現在・未来がごちゃごちゃと言うことになっている訳だから、顕界の霊が幽界や霊界を垣間見て影響を受けるのはごく当然である。 ちなみに、悟りを開くと過去・現在・未来が全て見えてしまう。 どの位の期間の未来が見えるか分からないが、少なくとも数年先までは見える様である。 
また、顕界の出来事(想いも含めて)も全て幽界・霊界には記録されるので、当然顕界の出来事も幽界・霊界にも長い目で見ると、影響を及ぼすこととなる。

顕界(現界)と幽界の相違

以下は、私が勝手に想像する顕界と幽界の相違である。

 顕界は、極端な事を言うと、場所は時間と共に少しづつ変化はするが、殆ど固定的である。 
人はその固定的な場所に於いて、時間と共に多くのことを経験しながら、現在が時間と共に過去になり、現在の行い、想いが未来に対し影響して行く。 
経験は自分一人で想いを巡らせて想いの中で経験する場合もあるし、実際に一人で行動して経験する場合もあるし、人や動物・植物と係わりあって経験する場合もある。
人や動物・植物と係わって経験して行く場合、経験によって自分自身の心や想いに対して大きな影響も与えるが、同時に係わった人や動物・植物にも大きな影響を与えている。 心の変化や行いを生きざまと呼ぶとすると、生きざまは自分自身が感じる部分と係わった相手が感じる部分の二つが同時に発生することになり、それが生きている間中、積み重ねられて行くことになる。


顕界に於ける成長は、想いを巡らせること、有用な書物を読むこと、有益な人と係わりあうこと等によってなされるが、特に大事なことは自分とは全く異質な人(価値観や行動が違う人)と係わったり、場合によっては自分の至らない点を注意してもらって、成長のための気づきのチャンスがあることである。 これは何とありがたいことであろうか・・・・もし、自分一人でいるか、他の人がいても自分と全く同一タイプであれば、気づくチャンスは殆ど無いと言うことになる。 要するに、顕界では外部要因で気づかされる事が多いと言うことになる。


ところが、幽界は同じ様なタイプが集まる空間であるし、自分の成長(浄化レベル)に応じて存在する空間が瞬時に変わってしまう。 そしてその幽界は、過去・現在・未来がごっちゃになっている。 過去・現在・未来が、ごっちゃになっていると言うことは、各人毎に時間に関する感覚が違うと言う事になる。 顕界では、人を含む物体があって、この物体に対して時間は皆共通に進む。 処が、幽界では、各人の過去が各人別にくっついていると言うことになる。 言い換えれば、過去の生きざまが現在の自分(霊)にくっついていると言うことになる。 更に、ややこしくしているのは、過去の自分の想い・経験だけでなく、係わりあった人や動物・植物の想いまで同時に省みて、自分(霊)の成長に繋げて行かなければならないと言うことである。 幽界に於ける未来と言うのは、過去の積み上げを現在省みて変化して行く様(さま)の先を未来としているが、変化(浄化)が進むと、存在する空間が変わる(次元が変わり神様に近づく)ことに注意すべきである。
もし、係わった人の想いが、呪い、恨みの様に、非常に強いものであった場合、幽界で一人で省みても浄化出来ないこともある。 これは、業(ごう)とかカルマと言われるもので、これが魂を覆っていると、もう一度顕界に生まれ変わって、業を発生させた人と解消する必要がある。 この様な縁で顕界で接し結ばれると、殺伐としたものになるか、他から見ると一方的に献身するような状態に見えるかも知れない。


もし、顕界で接した人や動物・植物が自分によって喜びを得たり感じたりした場合は、上記の状況は、一変することになる。 幽界へ行くと、相手の喜び、感謝が自分自身に全て戻って来ることになる。 だから、顕界では人に優しく自分に厳しくと言われるのである。 
人が先、自分は後の後と・・・言い聞かせていても、なかなか出来ないでいる自分である。




注)幽界の時間は、過去、現在、未来がごっちゃになっていると言うことは、過去は各人の生きざまなので、各人毎に時間が違うと考えると考えやすいと思う。 個としての物体が無く、従ってその属性も無いので、過去の出来事(自分自身の生きざまと、係わった人全ての生きざま)が各人毎に一気に現れると言うことは、同一空間にいても時間の感じ方は全く違うと考えた方が良いと思う。

顕(現)界のありがたさ

以下は、私の勝手な解釈と想いである。


・大先生は、合気道は禊ぎじゃ禊ぎじゃと言われて、禊の大事さを何時も言われている。 
 偉い先生は稽古じゃ、稽古じゃと言われ、合気道の稽古の大事さを何時も言われている。 
偉大な先生方が言われているのは、合気道の稽古を積み重ねることにより、心身の穢れ、淀みを禊いで、心身を整え、真心(まことごころ)を知り、人としての正しき道を歩んで欲しいと言う、祈りが入っている様に私は思う。
大先生は、合気道を稽古をする人、家族、国家、世界の人の宝にして欲しいとも言われている。


・神に通じる大先生が、この顕界に於いて、何故それ程までに禊ぎが必要だと言われるのだろうか?
それを知るには、顕界と幽界・霊界の違いを良く知る必要性がある。 幽界・霊界は肉身を持たず、生き通しの気付きの世界である事に注視すべきである。 
気付きの世界と言うのは、気付きが無い限り永遠にその状態が続くことを意味する。
これは全くの自在であると同時に何の変化も無く、考えようによっては暗黒の世界ともなりかねないのである。 
何事も同じ状態が永遠に続いたら地獄の様だと思いませんか? 
有限で制限だらけのこの顕界に生きる人間から見れば、自由自在で誰にも何も言われない世界は素晴らしいと思うかもしれないが、自在が故に気付かず、同じ状態が無限に続いたら、それこそ完全に自由さを失っていることを理解しなければならない。


・顕界が何故有限なのか? 何故、元つ御祖皇大神が肉身を持つ不自由な存在として人を創ったのか? 妙精な生き通しの霊的存在(魂)を何故不自由な肉身の中に納めたのか? この世は天国に比べたら地獄だと言う人がいるが、本当に元つ大神が人々を苦労させる為に魂を旅に出したのであろうか? 
これらの問いに対して、私は完全否定する。
顕界は大神様(元つ御祖皇大神)の慈悲によって存在していると思う。 霊界・幽界は気付くのが難しい世界だから、個として顕界に存在させ、個である人がお互いに切磋琢磨し合って、お互いが気付き合い、お互いがより良い方向へ進むのに最適な環境を大神様が創り上げ維持しているのだと思う。


・通常の人間は、体主心従霊属の為、個の属性である我欲(自分さえ良ければ良い)が全面に出る。 人前で押えていても、根本的に自分が一番可愛い、愛しい。 肉身が欲するものが一番可愛い、愛しい。 そのままの状態で死ぬと、気付くことの難しい幽界に、顕界の属性(我欲)を持ったまま行き、永遠の苦(気付きの無い苦)の世界で生きることになる。
この様な状態になるのを可哀そうに思う大神様は、限りある時間内に、お互いに助け合って、一刻も早く真人間の方向へ進めるよう、気付きの世界としての現在の顕界を創られているのだと私は考える。
現在の顕界と表現したのは、例えば地上に存在する人間が真人間になったら、顕界と言う層は別の働きがある層になるからである。 現在の顕界は、個が自分の存在の為にやりたい放題となっており、大神様が意図されている顕界とは全く異なっている。
 
・大先生が禊ぎが大事じゃだと言われ、偉い先生が稽古が大事じゃと言われるのは、この顕界の肉身にとって大事だと言われているのではなく、生き通しの魂(霊的生命)にとって、この顕界が真(まこと)について気付く最後のチャンスだと言われているのだと思う。 人々の内的生命である魂に永遠の苦の世界に行って欲しくないから、慈悲の祈りをされているのだと私は思う。  
このことは、正に人(生き通しの魂・霊)にとって宝である。 その宝は、合気道の稽古と言う禊で気付きとして与えられる。 禊ぎの稽古をするには、正しい稽古をする必要がある。 良く偉い先生が間違った稽古を何回しても意味が無い、むしろ害だと言われるのは最もであると思う。 正しい形、正しい想いの稽古をしない限り、禊は出来ないからである。
正しい形、正しい想いの稽古は心身を整え、気付きの連続となる。 これこそ、最大の宝である。

世の仕組み

以下は私が勝手に想像する世の仕組みの解釈である。


・世の仕組みとして、顕界、幽界、霊界、神界が存在し、更に各界は成長度合(浄化度合い)によって次元が無限に存在する。 
但し、幽界は人の想念が創り上げたもので本来は存在しない。 人が全て真人となった場合、幽界は消滅する。 その時点に於いては、地上は地上天国となる。
時間と空間は顕界が生じた時に、同時に発生したものであり、霊界、神界には顕界の様な時間、空間は無い。
但し、幽界は個(人・物)が創りだしたものであり、個の属性(欲)に引きずられている為、緩やかな時間がある様に思うが、はっきりとは分からない。


・人は死ぬと、浄化の度合いによって、顕界 → 幽界 → 霊界 → 神界 と移動する訳だが、自分の意思によっては移動できず、浄化が進むと瞬時に移動する。
顕界以外には、顕界の様な時間と空間は存在しないが、顕界の尺度で言うと、時間も空間も無限と言う事になる。 霊的生命は、浄化を繰り返し、神への旅を無限に続けることになる。


・人には二つの心が存在する。 一つは霊的な心であり、もう一つは肉身的な心である。
浄化の度合いと言うのは、言い換えると真(まこと)の度合いと言う事になる。 このことを理解するには、心には霊的な心と、肉身的な心があることを良く理解する必要がある。 
霊的な心と言うのは霊から発する心であって真(まこと)一筋と言う事になり、真(まこと)以外の存在は知らないと言うことになる。 
肉身的な心と言うのは、個の存在を維持しようとする心であって、本来的には自分さえ良ければ良いと言う自己中心的な欲の心である。
この二つの心の内、どちらが主導権を握るかによって、現れる現象が大きく変わる、全く別の現象が現れることになる。 
霊的な心が主導権を握れば、霊主心従体属となるし、肉身的な心が主導権を握れば体主心従霊属の状態になる。 すなわち、浄化の度合いによって、最初は体主心従霊属の状態であったのに、徐々に霊主心従体属とに変わって行くと言う事になる。


・何故、幽界が存在するかと言うと、体主心従霊属の状態で死ぬと、霊界は霊主心従体属の層(世界)なので一気には行けない。 そこで顕界であるこの世と霊界の間に幽界と言うものが存在することになったのである。
この幽界は、とても厄介な存在でもある。
顕界時代の個としての闇(欲)の持ち具合で幽界の中のどの層に行くかが決まるからである。
プライドが一番と思っている人はプライドを大事にする幽界の層へ、人を殺めたり傷つけたりすることが好きな人はその様なひとが集まる幽界の層へ、金銭や物が一番と思っている人はそのような物欲を大事にする幽界の層へ、セックスや乱交パーティ等が第一だと思っている人はそのような人が集まる幽界の層へ行くことになる。
幽界も永遠に続く世界ですから、完全には満足できない状態で、永遠に求め続け、誰からも注意されることなく、集まっているもの全てが個(自分自身)が大事な為、永遠に争いながら、優劣を競うと言うことになる。
これは正に地獄と言える。
何故、満足出来ないかと言うと、個としての肉身が死ぬ事によって個(肉身)そのものが存在しないのに、霊的な心を個(肉身)の属性である欲がすっぽり包み込み、個の属性(欲)が働き続けるからである。 個の属性(欲)が目的を達成しても、その喜びを感じ取る肉身が無いから満足出来ないのである。
幽界では、個の自在が認められている為、誰も注意しないので、本人が気づこうとしない限り永遠に続くことになる。
顕界で誰かから指導を受けたり、注意されることは、何とありがたいことであろうか・・・と思う。


・神様が創りだした顕界(物)の世界は、時間と空間があり有限ではあるが、本来は全て真(まこと)の世界である。 何故なら顕界の全ての物に真善美が組み込まれているからである。 真(まこと)は常に調和を生みだす。 調和は美となり、そして喜びを生ずる。
真(まこと)とは神様の想いであり、無限の愛そのもであり、何の混じりも無い純粋そのものである。 人が神と繋がるには、真(まこと)以外に方法は無い。 だが、人が真(まこと)一筋になるには、個としての属性(欲心)を封じ、霊的な心を発現しなければならないので、通常人には難しい。

2016年9月17日土曜日

このブログを公開しようと思いたったワケ

2016年現在、
日本の自殺者は年に3万人前後、
自殺未遂は年に50万人前後、
15歳~39歳の引きこもり人数は55万人前後
と、膨大な人数となっている。

また、不安な精神状態におかれ、睡眠導入剤や精神安定剤を利用せざるをえない人も数えきれないほどいると推測される。

さらに、認知症を患い老後に多くの人のお世話になり、自分の人生を満喫できていない方も多くおられる。

どうして、現在の日本はこんなに多くの人が病むことになってしまったのだろうか?

少子高齢化(高齢化社会)が進むにしても、元気な日本を取り戻すことは、可能だと私は思っています。

いったいどうやったら、 元気な日本を取り戻せるでしょうか?

それは真人(まことびと)の養成にあると思っています。
それは誰かに養成してもらうのではありません。
自分自身で長い年月をかけて行っていくのです。

真人とは、どのような人か? 私は次のように考えます。
  • 素直な人
  • ウソや偽りのない人
  • 自分だけでなく、人の幸せを願える人
  • 自分よりも人を優先できる人(特に弱い立場の人に対して)
  • 自分の弱さ、いい加減さ、身勝手さに打ち勝つ努力を続ける人
  • 地位名誉欲、金銭欲(物欲)の少ない人
  • 常に感謝の気持ちが持てる人
  • ことあるごとに、自らを省みる・愧じる・悔いる・懼る・悟るを実践しようとする人
  • 神心を大事に思う人
以上のような人であれば、一瞬一瞬を大事にし、そして死ぬまで前向きな人生を過ごし、幸せな生涯をおくることができると思います。

ここを訪れた、ちょっと生きづらさを感じている方が、シンプルに物事を見るコツをつかむきっかけとなれるよう願いますが、
あなたが、それについてどのように理解され、どのように行動され、どの様な結果を生むことになるのかは、私にはわかりません。
また、そのすべての結果に対して、私が責任を負えるものではないことも、充分にご承知おきください。