2016年9月18日日曜日

人としての幸せ

・どんな時でも自分の能力を発揮でき、更に生涯に於いて人として、成長し続ける為にはどうしたら良いのであろうか?  
一言で言えば、いい加減さを無くすことである。  
いい加減な心・姿勢はいい加減なものを生み、決して完全なものを生まない。  
では、いい加減さを無くすにはどうしたら良いのか?  
ひとつひとつを大事にし、何に対しても真剣に取り組み、誰の評価も気にすることなく淡々と続けることである。  
この場合の大事な事は、調和の中で極める心構えを持つことである。  
自分だけが良ければ良いと言う様な身勝手な目標は持つべきではない。  
自分が真剣に取り組んだ結果がやがて自分の内部を豊かにし、不安を無くし、透き通るような心で広く深く満たされれば、自然と自分の家族や関わり合う人々を想いやる様になり、喜びと言う宝を生むものです。
日々の稽古や生活に於いて、『省みる、愧(恥)じる、悔いる、懼(恐)る、悟る』と言う視点で自分自身を見つめ、着実に歩んで行く必要があります。

・この様に自分に厳しく、人に優しい生き方をして行けば、結局は生涯に亘って、凛とした生き方が出来、歳をとっても介護を受けることなく、心は充足感と喜びに満たされて過ごして行けるものなのです。 
この様な生活は、気付いたら、即座に始めることが大事です。 
条件をつけたり、何時からと先延ばしする人に、自分の立て直しをした人を私は見たことがありません。
この様な生活習慣は、3歳位から身につけさせる事が大事です。 歳をとればとるほど、過去に染まったものを直して行くには多くの時間を必要とします。

・合気道の稽古で得たもの(真・まこと)は、日常生活で活かされて、ほんものと言えます。

子供の育て方

・生まれたばかりの赤ちゃんは、皆、澄んだ目をして輝いている。
どんな人も赤ちゃんには癒される。
皆、天使のように生まれて来ているのに、何故、小学校の中高年生や中学、高校になると、いじめや陰湿ないやがらせが発生するのであろうか?
問題が起きると当事者(加害者、被害者、指導者、教育者)ばかり問題視されているが、何故、育ててきた親が一番の問題者であることを指摘しないのか、私には理解できない。

・子供に問題がある時は、基本的に親の育て方に問題があると思っている。 子供は悪くない。 親が悪いと思っている。
子供には小さい時から自分で考えさせ、自分に係ることは自分でさせ、やったことには責任をとらせる。 
自主性を育て、自らの判断で行動させるが、親から見て良くないことをしたら、身を呈して徹底的に叱ることも真に大事である。
褒めることも大事だが、褒めてばかりでは、強い子に育たない。 打たれ強く、人に優しく、自分に厳しい子に育てる為には、叱る時は全身全霊で叱ることも大事である。
親の想いを込めて全身全霊で叱れば、必ず子供はその深い愛に反応します。 それが親子、血のつながりなのです。 

・昔のお爺ちゃん、お婆ちゃん、お父さん、お母さんは、優しくもあったが、厳しく怖い存在でもあった。 叱られた時は、反発することはしなかったし、体力差で勝てるかどうかなど考えもしなかった。 本当に悪い時は、ぶたれもした。
小さい頃から、尊敬できる存在であれば、自分が悪い時、そのような人に暴力で立 ち向かうなどあり得ないことだと思う。
悪い時に真剣に身を呈して叱らないから、自分に甘い理屈だけこねる、どうしよう もない子になってしまうのです。

・なぜ、最近の親たちは真剣に叱らないのだろうか? 自分が小さい時に叱られたから、我が子は叱らない。 小さい時に充分な物を与えられていなかったから、我が子、我が孫には多くのお金や物を与えるのだろうか? そんなことでは、自己に厳しく、人に優しい子は育たない。
心の豊かさと、物の豊かさに順序をつけるなら、どちらが大事であろうか?
物は足るを知ると言う姿勢が大事だと思う。 心は澄み切り、人として豊かであり、何事にも喜びを感じて取り組めることが大事だと思う。

・まだ小さい我が子と友達感覚で接することは、私は賛成しない。 子供が自分自身に対して甘かったり、人としてやっては行けない事をした時は、泣いても徹底的に叱ることが大事です。 親の自分が自分自身に自信が持てないからと言って、子供に友達感覚で接することは、良くない。 本当の厳しさは、奥底に本当の優しさが無ければ出来ないことです。 親が自分自身に対しても厳しくすることが、まず第一です。 そうであれば、厳しく接しても、優しく子供を見守れます。子供は、必ずその親の偉大さを語らずとも後ろ姿で感じ取ります。 私は、合気道を通じて子供たちをそのように育てたい。

自然な生き方と和合

・昔のお爺ちゃん、お婆ちゃんは何故生き生きとしていたのでしょうか? 周りから期待されていたから・・ 慣習や日々の生活に於いて何でも知っていたから・・目標があったから・・・大家族の中で中心的な役割を果たしていたから・・・ 色々とあるでしょう。
お祭りも、盆も、正月も、田植えも、稲刈りも・・・毎年、季節の移り変わりの中でめぐってきます。 大きな自然の循環の中でめぐってくるのです。 お爺ちゃんやお婆ちゃんは、自然に溶け込み、生きていたからこそ、無理が無く、控え目でありながら何時も光っていた。
特にお婆ちゃんは、朝、暗いうちから起きて食事の用意もし、田畑も行き、全てをしながら、食事は最後にし、食後のお片づけもし、そして最後にお風呂に入っていた。
たまに、およばれがあって、上げ膳据え膳の時は、本当に申し訳ないと手を合わせて感謝の気持ちを心から現していた。
また、日の出の太陽に拝み、お月さまに拝み・・ 日々も、自然の中に溶け込んで生活をしていた。
何時も何時も周りの家族の為にしているのに、死ぬまで一度も不満を聞いたことが無かった・・・
私はこんなお爺ちゃん、お婆ちゃんを尊敬している。

・合気道で自然と一体になると言うことは、無意識の内に、自然の中に溶け込み、自然な動きで無理が無く、心奥底で相手を含む全体と溶け込んだ時の状況を言うと私は思っている。
このような状態になるためには、心を正さない限り、永久に無理である。

・合気道の和合は、体の和合ではないと考え、私は稽古に励んでいる。

・体主心従霊属から霊主心従体属の状態に転じる事が出来たら、その時、相手を含む大宇宙・大自然(神)との一体化がなされ、本当の和合が具現化すると思います。 この時の状態は、神人合一の状態であり、技はすべて神技となる。
従って五感を通じた厳しい稽古を続けたとしても、精神面が未熟で悟りが得られなければ、翁先生のような神技は出来ないと、私は思っています。      

昔のお爺ちゃん、お婆ちゃんに学ぼう

・永い人生を過ごし、最後に幸せだったなーと思える為には、悠悠自適となった時の過ごし方が大きく影響すると、私は思っています。
また、もし合気道に於いて心(精神)の面を追及して稽古に励めなかったら、これほど長く合気道をし、更に、住吉塾を構えることは無かったかも知れません。
翁先生や直弟子の方が、翁先生が大事にされたことを残されていなければ、今になっても黙々と一人稽古をしたり、精神的な深さを求めたりしなかったと思っています。

・ここでは、何故昔のお年寄りが元気だったか、素朴に見てみたいと思います。 物が豊かになり、生活が便利になり、核家族化することにより、知らず知らずに精神的に貧しく、そして、孤独で不安な生活に落ち込んで行く理由が見えてくる様に思います。

・昔のお爺ちゃん、お婆ちゃんは、何時も早起きで、元気で、何でも知っていた。
子供には恐い存在だったが、一番頼りになった。
何時も忙しく、動き回っていた。 お爺ちゃん、お婆ちゃんしかできないこともたくさんあった。
お祭り、正月、盆の時のお寿司、お餅、様々な料理、飾り付け お爺ちゃん、お婆ちゃんの出番だ。 朝早くから起きて、楽しそうに動き回る。 活気もあった。 子供であった自分もワクワクして来て、何か楽しくてしょうがなかった。
畑や田も、お爺ちゃん、お婆ちゃんの活躍場所だ・・・田植え、稲刈り、家族総出でするが、やはりお爺ちゃん、お婆ちゃんが中心だった・・・ 田畑で皆で食べるおにぎりは、特別においしかった・・

・この様な生活をしている田舎では、寝たきりのお爺ちゃん、お婆ちゃんは、近くの何処にもいなかった。 また、眠れないからと言って睡眠薬を飲んでいる人なんて聞いたことが無かった。
医者や学校の先生を、お爺ちゃんやお婆ちゃんは先生さまと呼んで、特別に尊敬していた。 それから、お寺の和尚さんも尊敬していた。 よそ様に迷惑をかけてはいけない・・・と、何時も言っていた。
お医者さんは、どんな悪天候でも往診に来てくれた。 子供には恐い存在だったが、なるほど先生さまと言われるだけのことは、あった。

・眠れないなど・・・何かがおかしい・・・眠れなくする元があるのが、おかしい・・・
眠れなくするもとを正す必要があるのでは・・・?

・さて、定年を迎える頃は、夫婦共に身体にガタが来る頃でもあります。 夫、ないしは、夫婦で働いている内は、お互いに生活リズムがあって、問題なく過ごせるかと思いますが、定年となり何時も一緒となると、うっとうしくなる夫婦が圧倒的に多くなるのが通常です。
身体にガタが来て薬に頼りがちになり、更に、気分を晴らす処が無くなってくれば、先の生活は見えています。 このころになると気力も急に衰えてきます。
40代、50代の頃に60歳以降の自分を想像できないのが問題を大きくしているのですが・・・

・確かに今は、昔ほどお爺ちゃんやお婆ちゃんの活躍する場所は、無い。 とくに都会では無い。
しかしながら、老人介護の世話を受けず、認知症にもならず、死ぬまで元気で自分がしたいことをすることは、出来ます。
おいしい食事をして、気持ちよく寝て、多くのことに興味を持って、生活を楽しむ・・・その為には、健全な精神と健全な身体が必要です。
40~50代で、合気道の稽古を自分の生活リズムに取り入れ、そのリズムで老後生活に入れば、楽しい生活が待っていると私は思っています。 それ故、心が豊かになる元を合気道の稽古時に話しているのです。
禊の合気道を志せば、自然に豊かになると、私は思っています。

・禊を難しく考える必要は、ありません。 身体のよどみをなくし、心を正す。 もとを正すのです。 心正しからずや技また正しからず、技を学ばんとするものは心を学べと、偉い先生が言われた。 その通りだと思います。 人を幸せにするのは、心の向け方(持ち方)ひとつです。 幸せは外から来るのでなく内から来るのです。 それに気づける自分を創り上げるのです。 心が明るければ光を放ちます。 ですから、心の正しい人の技は光るのです。 そして、周りも癒されるのです。 物や道具で豊かになることも必要ですが、それを利用する人の心が澄んでおり、何時も光を放つようでないと、物や流行に惑わされ、心が安らぐことは無いでしょう。

・心を正すとは、どのような状態になれば、正した事になるのでしょうか?
見える世界(物の世界・個を中心とした世界)から、見えない世界を大事にすれば良いのですが・・・

祖父母、両親の責任

以下は日本の数字である。
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・年間自殺者: 3万人前後/年 


・自殺未遂: 53万人超/過去1年


・15歳~39歳の引きこもり人数: 54万人 → 100万人(日本人全体の推定)


・成人の4人に一人は過去に自殺したいと思ったことがある。 
 そして、5人に一人は身近な人を自殺で亡くしている。


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・日本人全体では、常に100万人位が引きこもり、毎年50万人前後の人が自殺未遂を繰り返し、 そして毎年3万人前後が自殺で亡くなっている。 
 自殺やひきこもりと言う極端な状況に陥らなくても、日々、不安な精神状態におかれ、睡眠導入剤や精神安定剤を利用している人も数え切れないほどいるであろう。


・これは、一体誰の責任であろうか? 
 国家(政治家、行政)や地方自治体が悪いのであろうか?
 教育関係者が悪いのであろうか?
 それとも、身近な祖父母、両親が悪いのであろうか?


・勿論、国家、地方自治体、教育関係者にも責任がある。 
 しかし、一番の責任者で悪いのは、子供を日常的に育てていて身近にいる処の祖父母、両親
 である。
   ・何故、誉め育てるのか? 
   ・何故、機嫌取りをするのか? 甘やかすのか?
   ・何故、駄目な時は徹底的に叱らないのか?
   ・何故、自分で判断させ、実践させ、責任を取らせないのか?
   ・何故、内面の強さを養わないのか? 
   ・何故、人との競争をさせ、自身への甘さ、いい加減さ、楽さ加減さを戒めないのか?
 子供がしたいことをさせれば、そりゃー子供は、活き活きするさ・・・・
 そんな顔を見て喜んでいる祖父母、両親に聞きたい。
 一体お子さんが逆境に阻まれ思う様に行かなくなった時、どの様に乗り切れと言うのですか?
 その時は祖父母はこの世にいないかも知れない。
 年老いた両親も逆境に立ち向かえないお子さんを見て呆然とするだけでしょう。
 30代~40代の引きこもりは、両親の年金を頼りに生活している人が多いと言う・・・・
 そして、両親が亡くなると一気に生活に窮すると言う・・・・
 これは、全て祖父母や両親の育て方の問題である。
 目先に囚われ、子供に生きる強さを養わせなかった責任が、長い年月をかけて一気に押し寄
 せ、どうにもならない状態に陥るのである。
 合気道の稽古では、この生きる強さ(生命力)を養うべく日々努力しているのであるが、
 この想いは多くの祖父母、両親には届かない。
 真(まこと)に残念無念であり、言葉がない。
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日本の祖父母、両親、良く聞いて欲しい。
自殺未遂者よ、引きこもり者よ、自殺しようとしている人よ、睡眠導入剤を飲まないと寝れない人よ、精神安定剤を飲まないと安心できない人よ良く聞いて欲しい。
何故、もっと命を大事にしないのか・・・・何故、生きていることを満喫しないのか?
もっと、もっと強く生きて欲しい。
もっともっと自分の弱さに打ち勝って、貧しくても、自分の人生を歩んで欲しい・・・・
人に誉められて生きがいを見つけるのでなく、今・ここに生きている事に感謝し、目の前の全ての事に全力でぶつかって行こう・・・・ 一生懸命すれば、必ずそこに喜びが生じ、生きている事に感謝する様になると思う。 そして生かされていることにも感謝する様になると思う。
表面的(肉体的)強さや活き活きした姿を良しとして求めるのでなく、内面的な強さを養い、生きる強さ(生命力)を養って欲しい。 

心を変える難しさ

・心変わる → 行い変わる → 習慣変わる → 人格変わる → 運命変わる
何度も、何度も道場で言ったから、子供達も皆覚えた。 だが、心が本当に変わり、行いが変わって、習慣まで変わることは、余程のことが無い限り、通常人には難しい。


・どうして、人はこれほど変われないものであろうか・・・?  人は便利な方へ流れ、楽な方へ流れて行く。 自分のためになると思っていても、日々努力を必要とすることはなかなか出来ない。  どうしたら、心が変われるのであろうか・・・?


・お爺ちゃん、お婆ちゃん、お母さん、お父さん、先生、指導者 等に言われて、やる(やらされる)ことは、まず続かない。 強制力が無くなれば、やらされていることは自然消滅する。  やらされている事が、例え、その子の為になっていても、しなくなる。
要は、本人が自分の意思で心を変えない限り、行いは変わらないのである。 誰かにやらされている状態では、やらされている事に真心が無い。 真(まこと)の心の無い行いは、必ず消滅する運命にあるのである。


・では、どうしたら心が変わるのであろうか?
あることを想う→この想いは、神様に知られても恥ずかしくない想いであろうか?
あることを決断する→この決断は、自分の為だけでなく、人の為になることであろうか?
あることを行う→喜びや希望を渡せた(与えた)であろうか?
この様に何時も何時も、自分自身を省みて、神様の想いに届かない自分を恥じ、至らない自分を悔い、なかなか成長しない自分を懼れ、そして新たな努力をして少しでも神様の想いに近づこうとする。 この繰り返しが人の成長に欠かせないことを悟る。


・幼年期、壮年期、老年期 どんな時点でも、省みる、恥じる、悔いる、懼る、悟る を事ある毎に行えば、人は真人になる為の成長をするのである。


・月曜日の武器技自主稽古に参加している小中学生に、
『毎日、家で箸か定規を使って、剣の素振りを5分、杖の素振りを5分する』
事を求めた。
これによって何が得られる(変わる)かと言うと
  ①軸がぶれなくなる
  ②運足が正しくなる
  ③脇が締まり、膝に余裕が出来る様になる
  ④体重移動がスムーズになり剣や杖に自分の重さを乗せられる様になる
  ⑤呼吸力、イメージ力がつく
  ⑥剣や杖の素振りが正確になる
等が変わる。
だが、もっともっと大事なことが身につく。
  ①時間の大切さがわかる。
  ②継続力がつき、習慣が変わり、人格が変わることを実感できる。
  ③目に見えない深さの大事さ(大切さ)を感じ取ることが出来る。
  ④誰も見ていない、誰も褒めない処での努力の大切さ、真の喜びを感じられる様になる。
  ⑤心身共に強く、大きく育ち、おおらかで人に優しく、自分に厳しくなれる様になる。

田舎に帰って思う事

 久しぶりに田舎に帰ってお墓参りをしてきた。 そして、帰る時に小学生時代に銀座通りと呼ばれている処へ行って見た・・・・9割のお店が閉まっていた。 その内、店も家も無くなっていた処が3割はあった。
当時百貨店と呼ばれ、従業員やお手伝いさんが何十人もいたお店は無くなっていた・・・・町で一番の料理屋さんで、先祖代々から繁盛していた駅前の大きなお店も無くなっていた・・・・百貨店のおぼっちゃま、料理店のお嬢様、私と同級生だったが、今はどうしているのか・・・・


昔の田舎は、川も田んぼも見渡す限り綺麗だった・・・・神社には、祭りがある度に、人々が集まった・・・・夏には何時も盆踊りのはやしが聞こえた・・・・太鼓や笛の声が聞こえ始めると、祭りが近い事を知った・・・
そんな頃は、銀座通りは人であふれ、運動会やお祭りには一家総出で出かけた・・・・。
食べるものは今ほど豪勢では無かったが、人は皆豊かであった・・・・人を信じた・・・
家に鍵などかける人はいなかった・・・・お金が無ければ、貸し合い、夕食のオカズは隣近所で分け合ったことも多かった・・・・


昔には昔の良さが一杯ある・・・だが、世は常に変化する・・・変化は若者だけに訪れる訳ではない・・・・歳をとって、自分の想いは大事にするにしても、世の変化に流されること無く、世の流れを受け入れながらも、自分の変化を成長に変えて行く勇気も必要だと思う。
昔を懐かしみ、変化を受け入れないと、何時か日々の生活さえ活気を失い、生きることも辛くなると思う。 ぶれることなく、昔の自分にこだわらず、前へ進もう。 そうすることが実は一番充実し、一番の心の安定をもたらす様に思う。 とどまることが不安を呼ぶ様に思う

お爺ちゃん、お婆ちゃんの役割について

祖父(お爺ちゃん)、祖母(お婆ちゃん)の役割について


戦後、核家族化が進んで、日本の昔からの良い伝統が随分と変わってしまった様に思う。
祖父(お爺ちゃん)、祖母(お婆ちゃん)の役割(働き)も随分と変わった様に思う。
私が知る昔のお爺ちゃん、お婆ちゃんは、優しい中に厳しさがあった。 特に厳しかったのは、よそ様には絶対迷惑をかけない、よそ様から後ろ指をさされない、 と言うことだった様に思う。


今のお爺ちゃん、お婆ちゃんは、戦前生まれでも戦後の影響を大いに受けている。
昔の大家族の頃のお爺ちゃん、お婆ちゃんは、威厳もあったが後ろ姿を見ているだけで、学ぶことが多かった、自分のやり方を強く強制をしなかったが、周囲の者は自然に学んだ。


処が今のお爺ちゃん、お婆ちゃんは、一体どうなってしまったのか?  年老いたら、介護を受けるのは当たり前・・・ 公共からのサービス、割引、支援を受けるのは当たり前・・・・ 権利ばかり主張する・・・ 小さい子は、一体何をお爺ちゃん、お婆ちゃんから学ぶのか・・・?
歳をとりたくないものだ・・・・・若さを満喫しよう・・・・ こんな風になってしまう・・・
寂しい、残念、無念・・・と思うのは、私だけであろうか・・・?


 当道場でも、お爺ちゃん、お婆ちゃんの弊害が出ている・・・・
孫には苦労させたくない、孫が叱られている処は見たくない・・・そして、何時も褒めてくれる処、どんな時もニコニコしている処 を良い場所として、移って行く。
何とも情けない・・・お爺ちゃん、お婆ちゃん、親が死んだ後、どうやってこの子供達は難局を乗り越えて行くのか・・・? どうやって、自分の家族を守っていくのか・・・? 上司に叱られたり、周囲から注意を受けた時、どうやって対応して行くのか?
本当に罪深いお爺ちゃん、お婆ちゃんが増えてきた。
戦後、日本の一番の問題である。


また、自分のやり方を孫に強制するお爺ちゃん、お婆ちゃんもいる。
子供にはお母さん、お父さんがいる・・・・両親が子供の責任者であるのに、何故、お爺ちゃんやお婆ちゃんは自分のやり方を孫に強制するのか・・・・?
前述の甘さとは全く逆だが、これも大いに反省すべきである。
お爺ちゃん、お婆ちゃんは自分の後ろ姿で見本を示すべきである・・・・自分の育った環境をベースに、自分のやり方や価値観を孫に強制するのは、基本的に間違いである。
要は、見守る忍耐力が必要なのである。

私が勝手に想像するあの世の世界

以下は、私が勝手に想像するあの世の世界である。


・あの世は、波動の世界。 しかし、この世の様に時間と共に広がり、進むような波動では無い。
波動が浮かんでいると言う感じである。 この波動は同一波動はお互いに引き寄せる。 引き寄せると言うよりは、同じ波動のものが同じ場所に留まると言った方が正確だと思う。
この波動は浄化具合(まこと具合)によってのみ移動が可能であり、移動は自分の意思で無く、自然に動く。 つまり、浄化レベルによって波動が変わり、波動が変わる事によって、存在場所が自然に定まるのである。 浄化具合(まこと具合)と言うのは、想い・意思の浄化レベルを言うので、あの世でこの浄化レベルを変えると言うのは大変難しい事である。


・あの世では、自分の考えたことが即座に実現する。 処が、この世の様に誰も自分のことを注意したり指導したりしてくれない。 例え、してくれても、拒否も自由で、聞きたくない、知りたくないと思えば、全て拒否できるのである。 他の人(霊)を強制出来ず、自分の好き勝手なことが出来るとしても、それが他に全く影響を及ぼさないとしたら、とんでもなく恐ろしい世界の様に思う。


・波動の世界なので、自分より密な波動の存在は感知できない。 つまり、浄化の進んだ霊(波動)や神様の波動は感知出来ない。 逆に密度の高い波動は、密度の低い波動の存在、想い、考えは全て分かる。 何故なら、存在、想い、考えも全て波動となるからである。


・より浄化の進んだ場は、より強い光を放つ。 従って、澄み切りが進んで浄化レベルの高い霊が行くところは、より強い光の場(次元)に行くので、浄化レベルの低い霊はまぶしくて、そこには行けない。 まぶしいと言うより、浄化の進んだ場の微細波動で荒い自分の霊波動が分解されてしまうと考えた方が良いかも知れない。 


・自分本位で我の強い人が死んだら、その人は浄化が全く進んでいない処か、浄化の重要性さえも認識していないので、ほぼ、無限にその場を漂うことになる。 しかも浄化が全く進んでいないのだから、暗い光しか放つことしかできず、居場所も殆ど光の無い世界である。 そして周囲に現れる霊は全て自分と同じようなものを大事にし、自分の事しか考えない霊だから、永遠に修羅場が続くのである。 何と恐ろしい世界であろうか・・・・


・やはり、この世で散らない、まこと一輪の花を咲かせることがとても大事だと思う。

一厘の仕組み

以下は引用した神示の一部と私が勝手に解釈した内容である。


神示に「一厘の仕組み」と言われるものがある。
・ざからこ度は三千世界を元つ仕組みにタテカエ、タテナオス由、元つ正位正順の陰陽に、逆転致す申して居るのぞ。  逆位の体主心従霊属に魔釣る世を、正位の霊主心従体属に真釣る世にタテカエ、タテナオシ一挙に致して、万古末代滅びぬ嬉し、嬉しのミロクの御代と致すのじゃ。
マコトが一番でござるから、マコトを手にして下されよ。 ケガレ多き身、思えど、残るマコトの一厘で何かの神のご用をさせくれと、ケガレたとは申せ、ひそかに思うがマコト日本の人民様じゃ。
この方それを知りて居る由、汝が愛しいのじゃ。 何かのご用に使うてくれ申す者、一人も余さず使うてやるから、残るマコトの花一輪、何かに付けて見事咲かすが汝の務めじゃ。 一厘、磨きだされて見事、水晶と成して見なされ。 この方しっかと見届け致して、アッパレご用に使うてやるから、ガンバリ成されよ。 『火水伝文』より引用

・三個の神宝、真澄(ますみ)の珠、潮満(しおみつ)の珠、潮干(しおひる)の珠
潮満の珠は、厳(いつ)の御魂である。 「いづ」は泉の「いづ」である。 泉のように清らかな神水が無限に湧出する神宝である。 これをヨハネの御魂という。
潮干の珠は、瑞の御魂である。また、キリストの御魂という。 「みづ」は「みいづの御魂」という意味である。 みいづの御魂は、火の活動を万有に対して、無限に発射する。 世界を清める活用がある。
真澄の玉(珠)はあらゆるものを照らし、この世を浄化へと導くもの。 (説明は、他より引用)
いずれの宝も、世界の終末に際して、世界改造のために大神が御使用になる神宝である。 これを使用する神業が、一輪の秘密である。
国常立尊は邪神から守るために、冠島・沓島に三個の神宝を隠したのだが、実は島には珠の体のみを納めておき、珠の精霊はシナイ山の山頂へ、誰にも知らせずに隠しておいたのである。
『霊界物語』より引用

 ・これより先、新しき世に至るまで暫しの年月、辛抱肝心ぞ。
人民様、程度の差こそあれ業火の死遂げる者、生き残り塗炭の苦しみ受ける者、二つに一つになりたぞよ。 人ごとでないぞ。 汝も同じぞ。 悪人、善人らちもない。(区別なし)  死に行かれる者も、残し置かれる者も聞くのざぞ。 この度は地球最後の転生の時、天意転換の時ぞ。それゆえの厳しさぞ。 全人類、己(おのれ)が囚われ積みしケガレ、一点の曇り無きまで祓い清めせなならんから、数多(あまた)の民、死ぬる者も、残りし者も相等しく阿鼻叫喚の地獄の如き洗礼をその身に受けねばならんのぞ。 女、子供辛きこと哀れであるが、一人とてこれ避けること出来んから、早よう魂磨きてくれよと申して来たであろうが。
遅し、神、既に動きたぞ。
浮かれ暮らす人民様、この度のこと取り違えあれば、末期の不覚となりぬるぞ。 しっかと世情見ていて下されよ。 現界の荒ぶる現象、いよいよ混乱狂気となりておろうが。 正邪、背徳、驕奢の膿、様々なる形なさして世に噴出させておろうが。 これ予兆ぞ。 既に世界はウラにて一つになりたぞよ。
真中を過ぎし不測の時、世界の悪勢一挙に入り来たり、全土を一つと七つに分け占めて、修羅の地獄と化さしめん。 これ、こたび初めの神仕組みなり。 これ日本の事ぞ。マコトぞ。 仕組みありて、真先に日本祓い清めせなならんからぞ。 国、土台から破壊され、ケガレし権力潰えしも、外なるケガレ逆巻きて内なるケガレ祓うのぞ。 私有財産壊滅し、衣食住にも窮迫し、国民同士の戦(いくさ)ある。
人と獣(けもの)との分かれ目ぞ。 ケガレしものの消ゆるまで、三歳苦難の道行きぞ。
こは神仕組み神ハタラキなれど、汝等人民様の招きしことなるぞ。 汝の欲心甘やかし来たりたであろうが。しただけの事は拒めぬぞ。神恨むでないぞ。 しかあれ、人民様の苦しき死、残り苦しむ様、望みてないぞ。 既に遅けれど、このワケ、縁ある者に伝え置く。 この度死ぬる者は、このワケ聞いて肚(はら)に入れ、生き戻れるように死んで下されよ。死んでも頑張りて下されよ。 残されし者も同じぞ。死に急ぎなさるなよ。よくよく頑張りて下されよ。 よいな、三年の間ぞ。 三年の間、汝等の心魂、修羅場と化せしその地にて、耐え難きを耐え、魂磨くのぞ。 死して逃れんと欲っせしも、異界にて万倍の地獄飲まなならんのぞ。 神、頼むぞ。 汝等蒔いた種なれば、こらえにこらえて三真釣り持ち行け。 聞く耳出来たか。神、急ぐのぞ。 仕組み始まる前に聞いて下されよ。 
ここ数年の事ぞ。
仕組み始まりたれば三年の間、神一切手出しせぬのざから、このフミも手に入らんようになるのざから。 イノチある内に聞いて下され。 「そは何ゆえなりや、、、と」。  汝、初めて真理問うのぞ。 神、嬉しいぞ。
その心魂やよし。 お前様はこれまで、真理に向かいしこと希薄にして、この最後の時まで不明で在りしこと、はなはだ遺憾なれど、その身さかれし前に向きしこと稀有にして縁なり。
さればその心魂、最後まで持ち行きて下されよ。 三真釣り持ち行く者なれば、三歳苦難の間でも呼べば助くる、手出しする。 よいな、
 終わりと成すも始めと成すも、汝次第ぞ。 しっかと聞いて肚(はら)に入れ、よくよく頑張りて下されよ。  死に行くワケ、語りて聞かすぞ。 生き残されしワケ、語りて聞かすぞ。 新しき世も語りて聞かすぞ。  神、一人でも多く戻り来たりて欲しいのぞ。 よう戻りて下された。 永きご苦労の旅でありたが、神、よくよく汝の元つ光輝知りておる。  神、汝が可愛いのじゃ。 もう離れんでくだされよ。 神頼むぞ。
こ度このフミこの時出すは、汝等早うスミキリて、神ごころ戻るを促すがためなるぞ。
こ度の大変、身魂磨かれ居れば、スミキリて神ごころ近くありせば、何処に居ろうが、何が起ころうが、ご心配まったく無用なるを知りて欲しいからぞ。
これよりこ度の大変段々に語りて聞かすが、コクな事も聞かさならんから、神も辛いが、後々汝等善きようにしてやるから、マコトスミキリて神のお手伝いできるよう、 勇んで励みて下されよ。 死ぬる者も生き残されし者も、生死一如なるを知りて下されよ。
こ度は生死超えたる仕組みなるが由なり。 死しても頑張りて下されと申すもわかるであろうが。 こ度のこの文、マコト日本の人民様に伝うるフミぞ。
『火水伝文』より引用


以上は、神示の一部である。
以上を読まれた方は、どの様に思われたでしょうか? 
以下は私の勝手な解釈と想いである。

 火の構え(働き)と水の構え(働き)によって、あらゆるものが生じた。 そして生じたものには真善美が核として組み込まれた。 (真善美が組み込まれたと言っても、真があれば善と美は生ずると自分は思っているので、真が組み込まれたと言っても良いと思っている)
始原の時、快欲によって体主心従霊属が生じ、長い年月を経て、今の様な我欲が支配する乱れた世界になってしまった。 物欲、権力欲、名声欲、支配欲・・・個が欲するものが世界を覆ってしまった。 どうやったら、一体元の真(まこと)の世界に戻るのだろうか?
結局、産み出したのが、火と水と真(まこと)だったので、顕界に於いての大掃除は、火攻め、水攻め、真(まこと)攻めが行われると自分は思う。 火攻め、水攻めをしのいだとしても、最後の真(まこと)攻めは、各自が真(まこと)心を発揮しない限り救われないのだから、真(まこと)を持たない限り消滅すると思う。 幽界も消滅するので、もう行き場所が無くなるのである。 このことは、死んでも死に切れないと言うことになり、その苦しさは、自分には想像できない。 言ってみれば、無限の苦しさである。
今こそ、真(まこと)を現す努力をしよう。


何故、痴呆症がこれほど増えているのだろうか? 何故、これほど介護が必要となっているのだろうか? 老人が増えた、病気になっても進んだ医療で長生きしてしまう、福祉制度の充実で衣食住の心配は無くなった(貧しくても)・・・・この様な理由は、表面上のものだと思う。
人間は歳をとっても、自己のいい加減さに厳しく立ち向かい、人生の目標を達成(人としての完成)するために、日々努力を重ねるならば、これほどボケ老人が増えることは無いと思う。
歳をとってからの無目的な人生ほど人をボケさせるものは無いと思う。
元々、個の属性としての欲は、自己保存(種族保存)、物欲(金銭欲)、名誉欲、権利欲、食欲等であり、個の肉体的特性が欲するものである。 が故に、体主霊属と言われる訳でもある。
この体が元気なくなり、衰え始めたら、当然欲も比例して無くなって来る・・・・そうすると、無目的になり、何も受取ろうとしなくなる。 こう考えてみれば、歳をとったらボケるのが自然であり、むしろボケない方が自然に反すると思う。
では、どうしたらボケないで、そして介護などで人や国家にお世話にならないで済むかと言えば、やはり個の属性から離れた目的を持った人生を歩む必要がある。
それは、やはり真人(まことびと)を求めることだと思う。 
上記の一厘の仕組みを本当に知り、理解できるならば、ボケる暇など無い。 ボケたから助かるかと言うと、全く逆で絶望的だと思う。 この世の悪人でも最後に気付き正しい方向へ進むよう努力するなら、死んでもまだ救われる方向へ進むが、ボケたら進む方向さえ分からず、体主霊属のままで、何の疑問も持たず死ぬ訳だから、もう、消滅することしか残されていない。


昔の人が何故ボケないで済んだかと言うと、まず、季節の中で生きた。 自然の幸を旬として頂き、神社でお祭りをし、年寄りも子供も一緒にその役割を果たしながら、グループとして元気があった。
年寄りが大きな流れとしきたりの中で重要な役割を果たした。 祭りの中でも、日々の生活の中でも、何時も先頭に立っていた。 朝日を拝み、お月さまを拝み、日々の自然の恵みを頂き、朝から晩まで年寄りは働いた。 こんな生活をしていたら、眠れず睡眠薬が必要になる等考えられない。
老後施設など必要無く、自然が老人の住み家なのである。
こんな生活をしていれば、何も自然に感謝しろと言わなくても、ごく自然に心奥底から自然に対して感謝の気持ちが湧き出てくるものだ。
昔の老人は真(まこと)一筋等と言う言葉を知らなくても、寺の住職さんの法話を夜になると聞きに行った。 そして、ありがたいお話を聞いたと言って、自分の宝物の様にして生き方に活かして行った。 自然と共に生き、自然に感謝し、周囲の人々に感謝し、生きている限り一日一日を大事に生きて行く年寄りに一厘の仕組みなどを話す必要はないと自分は思う。

私が勝手に想う神様

以下は、私が勝手に想う神様です。


・元ツ御祖は、唯一絶対の存在と言われているが、本当にそうだろうか?
我々が存在する顕界から見た場合は、我々を存在させた(創り出した)元ツ御祖は、唯一の存在だと思う。だが、私は元ツ御祖的存在は他にもあると考えている。人間が自分以外にも存在する様に元ツ御祖も、同じ様な存在があると考える。 顕界の個(物体、人)は、そのままの荒さでは次元を超えられないように、自分を創り出した原点を超えられないから、唯一絶対的存在と捉えているのだと思う。


・元ツ御祖は何故、天界、霊界、顕界を創ったのであろうか?
元ツ御祖が複数存在するとしたら、やはり元ツ御祖にも何らかの成長を求められるのだと思う。
顕界に於いて存在するもの全てに成長が求められていると言うことは、顕界を創り出した元ツ御祖自身に成長を求められているからだと思う。 何故なら、天界、霊界、顕界全体は、元ツ御祖が創り出したのだから、元ツ御祖そのものと言えるからである。 成長(浄化・真の度合い)のレベルに応じて元ツ御祖の分け御魂(分身・人間で言うなら細胞や神経)を各層に存在させ、それらの成長を通して、自分自身も成長しているのだと思う。
要するに、分け御魂を与えた全ての存在が元ツ御祖から見たら、自分自身なのである。 それらの全てが成長すると言うことは、自分自身も成長すると言うことになる。


・何故、最初に体主霊属の存在を許したのであろうか?
霊のみの真善美だけでは、成長スピードが遅いのか、成長に限りがあるのだと思う。 そこで真反対の個を生じさせ、体主霊属によって生じる様々な問題点、悲哀を経験することによって、本来どうあるべきかを学び、成長しているのだと思う。  要するに価値観が真反対の成長を見て、個の属性を持たない自分達の成長に役立たせているのだと思う。


・何故、顕界に存在するものすべてに分御魂を与えたのであろうか?
一言でいえば、自分の細胞(自分の神経)の一つとして分け御魂を与え、全ての経験を自分(元ツ御祖)の成長の一部とする為であると考える。


・神様は何のために存在するのであろうか?
霊主体属であろうと、体主霊属であろうと、どちらも純粋であれば、その方向により成長させる為の働きをする為である。 どちらの方向であろうと、発展・成長して行けば、良い点・悪い点が明確になるからである。


・神様は真善美のみを支援するのであろうか?
神様には、善の神様と、不善の神様がいる。
善の神様は、真を大事にする人を支援し、不善の神様は物(個)を大事にする人を支援する。
従って物質文明が発展するのは、不善の神様が支援するからである。


・まだ見える世界(顕界・物の世界・個が存在する世界)が生じていない頃の世界は天界(神界)のみであった。 天界も縦方向(下向き・次元が荒い方向)に展開していて、最初の層には天之御中主神、神産巣日神、高御産巣日神、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじのかみ)、天之常立神の五柱があらせられるが、この神々は性別が無く独神で、原点(出発点)である元ツ御祖から産み出された。


・もう一つ下の層(顕界に一つ近い層)に伊邪那岐命、伊邪那美命等男女神が10神産み出された。 この10神が元ツ御祖から産み出されたのか、一つ上の層の五神によって生み出されたのか分からない。 男女神対で働きを生じるのが原則である。


・更にもう一つ下の層に国之常立神、豊雲野神が産み出されたが、独神であるが男神である。
天界から顕界に現れた最初の神様である。 この神様も元ツ御祖が産み出されたのか、上の層の神様が産み出されたのかは分からない。 伊邪那岐命、伊邪那美命が国産みをされた時に最初に現れた神様である。 豊雲野神様は、直ぐに隠れられた。


・伊邪那岐命、伊邪那美命は、顕界を創り出すと共に、顕界を司どる八百万神も合わせて創り出された。


・神様とは、結局、働きのことを言う。 どの様な働きをするかによって、神様は分けられ、神産みをする時、男女神が協力して新たな神を産めば両働きの神が生まれるが、男神や女神が一柱で神を産むと片働きの神が生まれる。
見える世界では男女の結びで新たな生命が生まれるが、見えない世界では、新たな働きを産み出そうとすると、気の交流(結び)で行われる。 気の交流は右廻りと左廻りの交流で行われ、どちらが主体となって働きかけるかによって、正しいもの(正しく働くもの)が生じるか、そうでないか(ながれる)が決まる。


・神様も人も元をたどれば、元ツ御祖が出発点(原点)である。
元ツ御祖 → 天界(神界)の神様 → 霊界の神様 → 顕界の神様 と神様には、それぞれの層を司る神様がいる。 当然ながら、これら神様は霊主体属である。 神様は全て目的を持った働きである。 縦軸(次元)で見ると上から下への流れである。
一方で顕界と共に生じた個は、体主霊属で本来の霊的力は埋もれている。 このままでは、霊的力は時間と共に失われて行く。 霊的力を発揮するには、真一筋になるよう浄化して行く必要がある。 完全に真を失うと消滅する。 浄化が進むと、霊主体属に変わるが、その上で更に霊的成長を計る必要がある。 縦軸で言うと下から上への流れである。


・大きな流れは上記の通りだが、この上下の流れは、神様直経の流れと言えるかも知れない。
これ以外に上から下への流れがある。 それは、幽界とか霊界(多分、霊界でも下の方の層)での出来事が顕界に現れると言うことである。 それはそうであろう、何故なら魂(霊)は生き通しなのだから転生すれば、霊界の状態が現れるのが当然であろう。 また、霊界では過去・現在・未来がごちゃごちゃと言うことになっている訳だから、顕界の霊が幽界や霊界を垣間見て影響を受けるのはごく当然である。 ちなみに、悟りを開くと過去・現在・未来が全て見えてしまう。 どの位の期間の未来が見えるか分からないが、少なくとも数年先までは見える様である。 
また、顕界の出来事(想いも含めて)も全て幽界・霊界には記録されるので、当然顕界の出来事も幽界・霊界にも長い目で見ると、影響を及ぼすこととなる。

顕界(現界)と幽界の相違

以下は、私が勝手に想像する顕界と幽界の相違である。

 顕界は、極端な事を言うと、場所は時間と共に少しづつ変化はするが、殆ど固定的である。 
人はその固定的な場所に於いて、時間と共に多くのことを経験しながら、現在が時間と共に過去になり、現在の行い、想いが未来に対し影響して行く。 
経験は自分一人で想いを巡らせて想いの中で経験する場合もあるし、実際に一人で行動して経験する場合もあるし、人や動物・植物と係わりあって経験する場合もある。
人や動物・植物と係わって経験して行く場合、経験によって自分自身の心や想いに対して大きな影響も与えるが、同時に係わった人や動物・植物にも大きな影響を与えている。 心の変化や行いを生きざまと呼ぶとすると、生きざまは自分自身が感じる部分と係わった相手が感じる部分の二つが同時に発生することになり、それが生きている間中、積み重ねられて行くことになる。


顕界に於ける成長は、想いを巡らせること、有用な書物を読むこと、有益な人と係わりあうこと等によってなされるが、特に大事なことは自分とは全く異質な人(価値観や行動が違う人)と係わったり、場合によっては自分の至らない点を注意してもらって、成長のための気づきのチャンスがあることである。 これは何とありがたいことであろうか・・・・もし、自分一人でいるか、他の人がいても自分と全く同一タイプであれば、気づくチャンスは殆ど無いと言うことになる。 要するに、顕界では外部要因で気づかされる事が多いと言うことになる。


ところが、幽界は同じ様なタイプが集まる空間であるし、自分の成長(浄化レベル)に応じて存在する空間が瞬時に変わってしまう。 そしてその幽界は、過去・現在・未来がごっちゃになっている。 過去・現在・未来が、ごっちゃになっていると言うことは、各人毎に時間に関する感覚が違うと言う事になる。 顕界では、人を含む物体があって、この物体に対して時間は皆共通に進む。 処が、幽界では、各人の過去が各人別にくっついていると言うことになる。 言い換えれば、過去の生きざまが現在の自分(霊)にくっついていると言うことになる。 更に、ややこしくしているのは、過去の自分の想い・経験だけでなく、係わりあった人や動物・植物の想いまで同時に省みて、自分(霊)の成長に繋げて行かなければならないと言うことである。 幽界に於ける未来と言うのは、過去の積み上げを現在省みて変化して行く様(さま)の先を未来としているが、変化(浄化)が進むと、存在する空間が変わる(次元が変わり神様に近づく)ことに注意すべきである。
もし、係わった人の想いが、呪い、恨みの様に、非常に強いものであった場合、幽界で一人で省みても浄化出来ないこともある。 これは、業(ごう)とかカルマと言われるもので、これが魂を覆っていると、もう一度顕界に生まれ変わって、業を発生させた人と解消する必要がある。 この様な縁で顕界で接し結ばれると、殺伐としたものになるか、他から見ると一方的に献身するような状態に見えるかも知れない。


もし、顕界で接した人や動物・植物が自分によって喜びを得たり感じたりした場合は、上記の状況は、一変することになる。 幽界へ行くと、相手の喜び、感謝が自分自身に全て戻って来ることになる。 だから、顕界では人に優しく自分に厳しくと言われるのである。 
人が先、自分は後の後と・・・言い聞かせていても、なかなか出来ないでいる自分である。




注)幽界の時間は、過去、現在、未来がごっちゃになっていると言うことは、過去は各人の生きざまなので、各人毎に時間が違うと考えると考えやすいと思う。 個としての物体が無く、従ってその属性も無いので、過去の出来事(自分自身の生きざまと、係わった人全ての生きざま)が各人毎に一気に現れると言うことは、同一空間にいても時間の感じ方は全く違うと考えた方が良いと思う。

顕(現)界のありがたさ

以下は、私の勝手な解釈と想いである。


・大先生は、合気道は禊ぎじゃ禊ぎじゃと言われて、禊の大事さを何時も言われている。 
 偉い先生は稽古じゃ、稽古じゃと言われ、合気道の稽古の大事さを何時も言われている。 
偉大な先生方が言われているのは、合気道の稽古を積み重ねることにより、心身の穢れ、淀みを禊いで、心身を整え、真心(まことごころ)を知り、人としての正しき道を歩んで欲しいと言う、祈りが入っている様に私は思う。
大先生は、合気道を稽古をする人、家族、国家、世界の人の宝にして欲しいとも言われている。


・神に通じる大先生が、この顕界に於いて、何故それ程までに禊ぎが必要だと言われるのだろうか?
それを知るには、顕界と幽界・霊界の違いを良く知る必要性がある。 幽界・霊界は肉身を持たず、生き通しの気付きの世界である事に注視すべきである。 
気付きの世界と言うのは、気付きが無い限り永遠にその状態が続くことを意味する。
これは全くの自在であると同時に何の変化も無く、考えようによっては暗黒の世界ともなりかねないのである。 
何事も同じ状態が永遠に続いたら地獄の様だと思いませんか? 
有限で制限だらけのこの顕界に生きる人間から見れば、自由自在で誰にも何も言われない世界は素晴らしいと思うかもしれないが、自在が故に気付かず、同じ状態が無限に続いたら、それこそ完全に自由さを失っていることを理解しなければならない。


・顕界が何故有限なのか? 何故、元つ御祖皇大神が肉身を持つ不自由な存在として人を創ったのか? 妙精な生き通しの霊的存在(魂)を何故不自由な肉身の中に納めたのか? この世は天国に比べたら地獄だと言う人がいるが、本当に元つ大神が人々を苦労させる為に魂を旅に出したのであろうか? 
これらの問いに対して、私は完全否定する。
顕界は大神様(元つ御祖皇大神)の慈悲によって存在していると思う。 霊界・幽界は気付くのが難しい世界だから、個として顕界に存在させ、個である人がお互いに切磋琢磨し合って、お互いが気付き合い、お互いがより良い方向へ進むのに最適な環境を大神様が創り上げ維持しているのだと思う。


・通常の人間は、体主心従霊属の為、個の属性である我欲(自分さえ良ければ良い)が全面に出る。 人前で押えていても、根本的に自分が一番可愛い、愛しい。 肉身が欲するものが一番可愛い、愛しい。 そのままの状態で死ぬと、気付くことの難しい幽界に、顕界の属性(我欲)を持ったまま行き、永遠の苦(気付きの無い苦)の世界で生きることになる。
この様な状態になるのを可哀そうに思う大神様は、限りある時間内に、お互いに助け合って、一刻も早く真人間の方向へ進めるよう、気付きの世界としての現在の顕界を創られているのだと私は考える。
現在の顕界と表現したのは、例えば地上に存在する人間が真人間になったら、顕界と言う層は別の働きがある層になるからである。 現在の顕界は、個が自分の存在の為にやりたい放題となっており、大神様が意図されている顕界とは全く異なっている。
 
・大先生が禊ぎが大事じゃだと言われ、偉い先生が稽古が大事じゃと言われるのは、この顕界の肉身にとって大事だと言われているのではなく、生き通しの魂(霊的生命)にとって、この顕界が真(まこと)について気付く最後のチャンスだと言われているのだと思う。 人々の内的生命である魂に永遠の苦の世界に行って欲しくないから、慈悲の祈りをされているのだと私は思う。  
このことは、正に人(生き通しの魂・霊)にとって宝である。 その宝は、合気道の稽古と言う禊で気付きとして与えられる。 禊ぎの稽古をするには、正しい稽古をする必要がある。 良く偉い先生が間違った稽古を何回しても意味が無い、むしろ害だと言われるのは最もであると思う。 正しい形、正しい想いの稽古をしない限り、禊は出来ないからである。
正しい形、正しい想いの稽古は心身を整え、気付きの連続となる。 これこそ、最大の宝である。

世の仕組み

以下は私が勝手に想像する世の仕組みの解釈である。


・世の仕組みとして、顕界、幽界、霊界、神界が存在し、更に各界は成長度合(浄化度合い)によって次元が無限に存在する。 
但し、幽界は人の想念が創り上げたもので本来は存在しない。 人が全て真人となった場合、幽界は消滅する。 その時点に於いては、地上は地上天国となる。
時間と空間は顕界が生じた時に、同時に発生したものであり、霊界、神界には顕界の様な時間、空間は無い。
但し、幽界は個(人・物)が創りだしたものであり、個の属性(欲)に引きずられている為、緩やかな時間がある様に思うが、はっきりとは分からない。


・人は死ぬと、浄化の度合いによって、顕界 → 幽界 → 霊界 → 神界 と移動する訳だが、自分の意思によっては移動できず、浄化が進むと瞬時に移動する。
顕界以外には、顕界の様な時間と空間は存在しないが、顕界の尺度で言うと、時間も空間も無限と言う事になる。 霊的生命は、浄化を繰り返し、神への旅を無限に続けることになる。


・人には二つの心が存在する。 一つは霊的な心であり、もう一つは肉身的な心である。
浄化の度合いと言うのは、言い換えると真(まこと)の度合いと言う事になる。 このことを理解するには、心には霊的な心と、肉身的な心があることを良く理解する必要がある。 
霊的な心と言うのは霊から発する心であって真(まこと)一筋と言う事になり、真(まこと)以外の存在は知らないと言うことになる。 
肉身的な心と言うのは、個の存在を維持しようとする心であって、本来的には自分さえ良ければ良いと言う自己中心的な欲の心である。
この二つの心の内、どちらが主導権を握るかによって、現れる現象が大きく変わる、全く別の現象が現れることになる。 
霊的な心が主導権を握れば、霊主心従体属となるし、肉身的な心が主導権を握れば体主心従霊属の状態になる。 すなわち、浄化の度合いによって、最初は体主心従霊属の状態であったのに、徐々に霊主心従体属とに変わって行くと言う事になる。


・何故、幽界が存在するかと言うと、体主心従霊属の状態で死ぬと、霊界は霊主心従体属の層(世界)なので一気には行けない。 そこで顕界であるこの世と霊界の間に幽界と言うものが存在することになったのである。
この幽界は、とても厄介な存在でもある。
顕界時代の個としての闇(欲)の持ち具合で幽界の中のどの層に行くかが決まるからである。
プライドが一番と思っている人はプライドを大事にする幽界の層へ、人を殺めたり傷つけたりすることが好きな人はその様なひとが集まる幽界の層へ、金銭や物が一番と思っている人はそのような物欲を大事にする幽界の層へ、セックスや乱交パーティ等が第一だと思っている人はそのような人が集まる幽界の層へ行くことになる。
幽界も永遠に続く世界ですから、完全には満足できない状態で、永遠に求め続け、誰からも注意されることなく、集まっているもの全てが個(自分自身)が大事な為、永遠に争いながら、優劣を競うと言うことになる。
これは正に地獄と言える。
何故、満足出来ないかと言うと、個としての肉身が死ぬ事によって個(肉身)そのものが存在しないのに、霊的な心を個(肉身)の属性である欲がすっぽり包み込み、個の属性(欲)が働き続けるからである。 個の属性(欲)が目的を達成しても、その喜びを感じ取る肉身が無いから満足出来ないのである。
幽界では、個の自在が認められている為、誰も注意しないので、本人が気づこうとしない限り永遠に続くことになる。
顕界で誰かから指導を受けたり、注意されることは、何とありがたいことであろうか・・・と思う。


・神様が創りだした顕界(物)の世界は、時間と空間があり有限ではあるが、本来は全て真(まこと)の世界である。 何故なら顕界の全ての物に真善美が組み込まれているからである。 真(まこと)は常に調和を生みだす。 調和は美となり、そして喜びを生ずる。
真(まこと)とは神様の想いであり、無限の愛そのもであり、何の混じりも無い純粋そのものである。 人が神と繋がるには、真(まこと)以外に方法は無い。 だが、人が真(まこと)一筋になるには、個としての属性(欲心)を封じ、霊的な心を発現しなければならないので、通常人には難しい。

2016年9月17日土曜日

このブログを公開しようと思いたったワケ

2016年現在、
日本の自殺者は年に3万人前後、
自殺未遂は年に50万人前後、
15歳~39歳の引きこもり人数は55万人前後
と、膨大な人数となっている。

また、不安な精神状態におかれ、睡眠導入剤や精神安定剤を利用せざるをえない人も数えきれないほどいると推測される。

さらに、認知症を患い老後に多くの人のお世話になり、自分の人生を満喫できていない方も多くおられる。

どうして、現在の日本はこんなに多くの人が病むことになってしまったのだろうか?

少子高齢化(高齢化社会)が進むにしても、元気な日本を取り戻すことは、可能だと私は思っています。

いったいどうやったら、 元気な日本を取り戻せるでしょうか?

それは真人(まことびと)の養成にあると思っています。
それは誰かに養成してもらうのではありません。
自分自身で長い年月をかけて行っていくのです。

真人とは、どのような人か? 私は次のように考えます。
  • 素直な人
  • ウソや偽りのない人
  • 自分だけでなく、人の幸せを願える人
  • 自分よりも人を優先できる人(特に弱い立場の人に対して)
  • 自分の弱さ、いい加減さ、身勝手さに打ち勝つ努力を続ける人
  • 地位名誉欲、金銭欲(物欲)の少ない人
  • 常に感謝の気持ちが持てる人
  • ことあるごとに、自らを省みる・愧じる・悔いる・懼る・悟るを実践しようとする人
  • 神心を大事に思う人
以上のような人であれば、一瞬一瞬を大事にし、そして死ぬまで前向きな人生を過ごし、幸せな生涯をおくることができると思います。

ここを訪れた、ちょっと生きづらさを感じている方が、シンプルに物事を見るコツをつかむきっかけとなれるよう願いますが、
あなたが、それについてどのように理解され、どのように行動され、どの様な結果を生むことになるのかは、私にはわかりません。
また、そのすべての結果に対して、私が責任を負えるものではないことも、充分にご承知おきください。