2016年10月19日水曜日

生涯現役の難しさ

・ここで言う現役は、生涯仕事に就くと言うことでは、ありません。
 死ぬまで、人にお世話になることは最小限にし、自分の出来ることは全て自分でし、日々
 前向で充実した日々を過ごすと言うことです。
 睡眠導入剤や精神安定剤を飲まなくても、おおらかに、不安なく、日々生活の中から多くの
 ことを学び、出来ることは実践し、毎日の食事を美味しく頂き、季節の変化を楽しみ、自然
 の流れ中でおだやかに、そして力強く生きて行く姿を、私は生涯現役と呼びたい。


・人は楽な方向へ流される。 人は他の誰かと比較したがる。 人は優越感を持ちたがる。
 人は物の豊かさを求め、もう、これ位で充分とならず・・・・より便利で、より物質的に
 豊かで、より快楽を求める。 そして自分さえ良ければ良いと言うのが基本にある。
 要するに肉体的な喜びを求め始めたら限界が無いのである。 有限な世界で無限を求め
 る、なんとあさはかな、そして恥ずかしい事か・・・・


 大先生は、この様な特長を持った処の通常人を前提にした上で、合気道は真人(まことび
 と)の養成にあると言われた。 そして合気道を人、家族、地域、国家、全世界の宝とせよ
 と言われた。 合気道は人の争いを無くし、人を思いやり、真(まこと)の幸せをもたら
 すものであるとも言われた。
 どうして真人(まことびと)なると、人としての本当の幸せになれるのであろうか?
 真人(まことびと)を目指した人が、利己心の集団に入った時、ぶれずに行けるだろうか?
 利己心の強い人達の心無い言葉で傷ついたり、阻害されてその場におられなくなったり、
 して、生活そのものが危うくなったりしないのであろうか?


・まず、真人(まことびと)を目指す人は、人は変わらないと言うことを充分に理解するこ
 とが大事だと思います。 言い変えると、自ら変わろうと日々努力している人は変われ
 るが、そうで無い人は、言っても変わらないと言うことです。


・一方で合気道の稽古、つまり、武産合気の稽古をやめて、真人(まことびと)を目指した人
 が、通常の人(利己心を持った人で真人を意識しない人)の集団の中で生活し続けた場合、
 真人を目指し続けるのは、極めて難しと言わざるを得ない。
 武産合気は、霊的身体と肉身的身体の結び、霊的心と肉身的心の結び、霊(魂)と心と肉
 身の結びを助ける働きがある。 つまり、日常の生活によって、どうしても利己的な心の影
 響を受けて穢れが生じて、その穢れが霊的な心(透き通った心で神様に通じる心)を包ん
 でしまい、霊を中心とした結びが弱くなってしまうのである。
 霊的な心を発揮するのが霊主心従体属であるが、武産合気道を稽古しないと、知らず知
 らずの内に、体主心従霊属となってしまうのである。 
 求める心も一緒である、純粋に成り切れていなくても、求める心も弱くなって、霊との結び
 も弱くなって、いつのまにか、普通の利己心の強い人になってしまい、真人(まこと
 びと)を目指していたことさえも忘れて行くのである。
 武産合気の想いと技は、霊と体の結びを強くし、心身の調和を取り戻し、真人(まこと
 びと)を目指し続ける為の妙精な気(生命力を強くする気)を強くし、人としての完成を目
 指す原動力となるのである。 
 従って、禊の想いと技である武産合気の稽古を続けることにより、真人(まことびと)を
 求め続けることが出来るのである。


・武産合気の稽古を続けることにより人は強くもあり、武産合気の稽古をしなくなることに
 より人は弱くにもなるのである。
 武産合気の稽古は、通常の日常生活を否定するものでは決して無い。 むしろ逆である。
 通常の日常生活の中で、まがごとに惑わされず、真(まこと)を貫くことにより、仕事の核
 心部分を外すこと無く達成し、信頼を得て、中心的存在にならしめるものなのである。
 武産合気は、霊と心と体の調和を産み出し、自分と言う内側の世界と外の世界の結び
 と調和を産み出し、人としての力を発揮する為にあるのである。


 さー、今日も稽古に励み、活き活きした人生を歩もう・・・・。
 そして、ことあるごとに、省みる、恥じる、悔いる、懼る、悟るをして、真心(まこと
 こころ)からずれて行っていないか確認し、人生の航路を正して行こう。

2016年10月5日水曜日

想いを込める

・何かをする時は、想いを込めてすることが、とても大事だと思います。
 処が、想いはどんどん変わります。 若い時に持つ想いと、年老いてから持つ想いは違って
 きます。 それから、状況によっても想いは大きく変わります。 
 思う様に事が進まず苦難に満ちた日々を過ごす時の想いと、何事も順調で日々希望に満ち
 溢れて真っ直ぐ進む時の想いは、やはり違ってくることでしょう。


・人は小宇宙と大先生は言われる。 肉体の仕組みを小宇宙と言われているのであろうか?
 肉体の生命活動が、大宇宙の生命活動と似ていることから言われているのであろうか?
 それとも、人も大宇宙も神様が創造されたものであるから、人を宇宙の一部と見れば、
 小宇宙となると言われているのであろうか?
 あるいは、人の想いが神心となれば、神様と同じ働き(力)を持つ様になるので、神様が大
 宇宙を創られた様に、人も同じ様に小宇宙を創れると言うことを言われたのであろうか?


 私は、心(想い)と身体を合わせたものであり、更に永遠に生成化育を続けて行く姿を言わ
 れているのだと思っています。 肉身を主とする個優先の心と、真(まこと・魂)を主とす
 る霊的な心があるが、霊的な心を発動させ、霊主心従体属の状態に変える。 そうすること
 によって、穢れの無い小宇宙が自然に出来るので、その小宇宙から神心の想いを大宇宙
 に向かって発っする・・・・
 このことが、人々を覆っている穢れを落とすのに、とても重要な働きをすると思っていま
 す。
 我欲と言う穢れが落ちない限り、大切な気づきのチャンスがあっても、人は気付けないの
 です。
 気付きが無ければ、人は変われないのです。 耳元で、何度ささやいても、我欲と言うブ
 ロックで跳ね返され、その人には、伝わらないのです。


・最初に、想いは変わると言いました。
 しかし、肉身が発する想いと、霊的な奥深い心が発する想いでは、変わり方が違います。
 肉身が発する想いは、基本的に我良しの利己的な想いですから、状況に応じてどんどん
 変わります。 時、場所によって変わり続け、同じ想いは無いと言えます。 
 そりゃーそうでしょう、世の中、一時として同じ状況は無いのですから、自分が一番可愛
 い利己的な想いは、休むことなく変わり続けるのです。 
 広く浅く、どんどん、変わって行く と言うことになります。
 処が、霊的な奥深い想いは、利己的な想いとは全く異なります。
 利己的な心が欲を求めて右往左往するのは、真(まこと)が無い揺らぎから来るのであっ
 て、霊的な想いは、真(まこと)一筋ですから、揺らぐことがないのです。
 霊的な想いは、利己的な想いで右往左往する姿を憐れみ、少しでもその闇が解けて禊が
 れる様に願って、自分以外に向かって、慈愛の想いを発するのです。
 霊的な想いが変わるとしたら、その深さが変わると思います。 即ち、浄化の度合いによ
 って、想いの深さが変化するのです。


・さて、合気道をする時にどの様な想いを込めたら相手を活かし、喜ばせることが出来るの
 でしょうか? そして、自分も喜ぶことが出来るでしょうか?
   ①無理、無駄、むらが無い、大自然の流れを創る様な想いを意識し、その想いに呼吸、
     動きを乗せて行き、相手を誘導して行く。
   ②肉体的な動き、力に惑わされることなく、揺れない奥深い霊的な心を働かせて、相手
     の動き、想いを吸収し、無力化して戻してあげる。
   ③個の力を全体に帰する様に誘導する。
   ④個の持つ争い、淀み、穢れを、自然の流れ、正しき想いによって綺麗にしてあげる。
 以上の様な事を願い想って、気を充実させ、合気道の稽古をすれば、大先生が渡そうとさ
 れた合気道に近づいて行くように思います。


・稽古で得られた真理をどの様に日常生活に活かすか? と言うことも、とても重要です。
 大先生は、合気道は真人(まことびと)の養成にあると言われている訳ですから、稽古に来
 てああ良い汗をかけた、ああさっぱりした、と言うだけでは、同じところでくるくる廻って
 いるだけであって、真人からは程遠いことになります。
 例えば、先に合気道の稽古をする時に、どの様な想いを込めたら良いのかを書きました
 が、これを日常生活に置き換えて見ますと・・・・
   
   家庭の日常生活に於いて、どの様な想いを込めたら、夫婦はお互いを活かし、喜ばせ
   ることが出来るのであろうか?
     ①一日の生活の中で無理、無駄、むらが無く、自然の流れに乗って、相手に想いや
       りを持って接し、前向きな充実した時間を過ごす様にする。
     ②相手が悩んだり、悲しんだり、苦しんだり、ふさぎ込んだりしていても、それに
       惑わされることなく、笑顔と余裕と包容力で迎え入れ、そんなことは人生上、
       大問題では無い事を悟らせ、何時もの笑顔に戻る様に誘導してあげる。
     ③個が肉身として悩むことは所詮、大したことは無く、悩みの元を正しき想いに
       変わる様に誘導し気付かせて、大いなる力の一部になるようにする。
     ④疲れた身体、想い、考えを大きな想い、笑顔、振る舞いで迎え入れ、如何に現在
       の状態が悩むに値しないかを自らの力で悟らせ、新たな一歩を歩ける様に誘導
       して上げる。
   と言う風に、私なら置き換えます。


 合気道の技一つ一つが禊の技であるから、正しき想いを持って励むなら、そこから日常生
 活に活かせる真理(つまり、お宝)に、どんどん気付けると思います。

至誠(しせい)と真(まこと)

・大先生は、合気道は真人(まことびと)の養成にある、と言われた。 また、大先生は、
 至誠・誠・真を使い分けておられる。
 偉い先生は、至誠と言う言葉を好んで使われる。 
 同じ様なニュアンスで、神通合気道(じんつうあいきどう)と言う言葉も好まれているし、
 真人になる為の稽古を日々されている。
 そして、神通合気道と言う言葉は、大先生は使われておらず、偉い先生ご自身が初めて
 使われた言葉だそうで、大先生は恐らく、そう言う想いで合気道をされていただろうと想っ
 て、使い始め、書にも書かれたそうです。


・さて、誠(まこと)と真(まこと)は、どう違うのであろうか? 
 ここからの解釈は、私が勝手に想う 解釈です。
 真(まこと): 
   絶対、唯一であり、神様しか創造できない。 神様そのものとも言えるし、神様の働き
   とも言える。 また、人から見れば、神様に通じる唯一の方法とも言える。
 誠(まこと): 
   相対的とも言えるし、段階的(レベル)とも言える。 
   誠には、程度(如何程)がある。 誠の最高位にあるものを至誠と言う。 
   至誠は真に近いが、真とは本質的に異なる。 だが、真に至るには、至誠と言う段階が
   欠かせない。
 以上の様に、私は解釈しています。


・まがごと、うそ、いつわり の無い人を生じさせ(産み)、育んで行く武道が武産合気とも
 言える。 武産合気の想い(大先生の想い)、技(武産合気の体術、合気剣、合気杖)は、
 大先生が長年研鑽されて産んだ中から、禊の働きのあるものを大先生ご自身が纏めら
 れ集約されたのを武産合気と名付けられたそうです。


・従って、大先生の想いを理解して、日々の生活の中でも実践し、道場に於いては武産合
 気を正確に稽古して行けば、自然と禊の働きが生じ、稽古人は真人(まことびと)に近づ
 いて行くことになるのである。


・有名な先生に何年か習ったりすると
 私は、~先生に何年習ったと言って、あたかも、その先生が伝えようとしたこと全てにつ
 いて習熟しているかの様にふるまったりするが、これはとても恥ずかしい事である。
 まず、第一に有名な先生は、死ぬまで修行され、日々変化されている。 弟子は、有名
 な先生以上に日々研鑽し一時(いっとき)も休むことなく努力しないと、引き離されること
 はあっても、追いつくことはない。 要するに、偉い先生の変化の途中を垣間見た程度
 なのである。
 第二に、同じ先生に習うにしても、週に5回習う人と、週に1回習う人では、最低5倍は
 違うと言うことである。 
 何故、最低5倍と言ったかと言うと、実際は10倍位違うと言うことである。
 何故かと言うと、週に5回習う人は、様々な点で師匠には及ばないことに気付き、自分
 なりに稽古以外の時間で想いを巡らせ、求め続ける姿があるのである。
 週に1回の稽古の人でも、残った時間で想いを巡らせ自分なりに追い求めて行けば
 出来そうに見えるが、そうは行きません。 
 想いを巡らせる前に、自分の現在の状態(どの様な段階・位置にいるか)を知り、何が
 不足しているか気付くことが出来る必要があります。
 要するに、この気付きが出来ないのです。 気付くためのセンサー(感覚)が出来てい
 ないのです。


・至る人は、自分の至らない点を知り、
 至らない人は、自分の至らなさを知らない 
 本当に無知と言うのは恐い事です。
 誰もが、忙しい日々を過ごしています。
 自分自身の体調が優れない、会社の仕事が忙しい、家族との時間が欲しい、介護を
 する必要がある。 様々な理由があって充分な稽古をするのは、難しいでしょう。
 しかし、一方で自殺未遂者が年に50万人以上、引き籠り者が日本で150万人以上、
 精神安定剤や睡眠導入剤利用者が1000万人以上(推定)いて、更に、早々と認知症を
 患う人も数え切れないほどいますし、努力すれば介護を受けなくて済む人も数え切れな
 いほどいます。
 身体が動く内に、真人になるための生活習慣を身につける必要があるのです。
 貧困の人で上記の様な状態になったら絶望感しかないでしょう・・・・
 裕福な人でも、上記の様な状態になったら、何一つ楽しめなくなります。
 以上のことを良く考えて見る必要があります。 誰一人例外はありません。
 大先生は、合気道は真人の養成にあると言われ、もう一方で合気道を人や家族、国家
 の宝にする必要があると言われています。
 大先生は、一度たりとも金銭的(物質的)に豊かになることが人の幸せだと言われていま
 せん。
 物質的豊かになってはいけないとも言われていません。 
 真(まこと)を尽くし、結果として物質的にも豊かになるなら、決してそれを否定するもの
 ではありません。
 要は、真人(まことびと)を目指した生き方が、生涯に於いて、本当の幸せをもたらします
 よ!   と、大先生は言いたかったのだと思います。
 上記の様な悲惨な状態に陥らない様、日々、真人(まことびと)を目指した生活、稽古をし
 たいものである。


・日々の生活(実践)の中で、本当に真人(まことびと)を目指した想い、行動をとっている
   かを、省みる、恥じる、悔いる、懼る、悟る を以って確認しながら進む。
 稽古では、神心(かむこころ)になる為の稽古を目指す。 
 そうすることにより、至誠な状態に近づき、最後には真(まこと)に通じ、神の想いを知る
 ことになると思うのです。