2016年10月5日水曜日

至誠(しせい)と真(まこと)

・大先生は、合気道は真人(まことびと)の養成にある、と言われた。 また、大先生は、
 至誠・誠・真を使い分けておられる。
 偉い先生は、至誠と言う言葉を好んで使われる。 
 同じ様なニュアンスで、神通合気道(じんつうあいきどう)と言う言葉も好まれているし、
 真人になる為の稽古を日々されている。
 そして、神通合気道と言う言葉は、大先生は使われておらず、偉い先生ご自身が初めて
 使われた言葉だそうで、大先生は恐らく、そう言う想いで合気道をされていただろうと想っ
 て、使い始め、書にも書かれたそうです。


・さて、誠(まこと)と真(まこと)は、どう違うのであろうか? 
 ここからの解釈は、私が勝手に想う 解釈です。
 真(まこと): 
   絶対、唯一であり、神様しか創造できない。 神様そのものとも言えるし、神様の働き
   とも言える。 また、人から見れば、神様に通じる唯一の方法とも言える。
 誠(まこと): 
   相対的とも言えるし、段階的(レベル)とも言える。 
   誠には、程度(如何程)がある。 誠の最高位にあるものを至誠と言う。 
   至誠は真に近いが、真とは本質的に異なる。 だが、真に至るには、至誠と言う段階が
   欠かせない。
 以上の様に、私は解釈しています。


・まがごと、うそ、いつわり の無い人を生じさせ(産み)、育んで行く武道が武産合気とも
 言える。 武産合気の想い(大先生の想い)、技(武産合気の体術、合気剣、合気杖)は、
 大先生が長年研鑽されて産んだ中から、禊の働きのあるものを大先生ご自身が纏めら
 れ集約されたのを武産合気と名付けられたそうです。


・従って、大先生の想いを理解して、日々の生活の中でも実践し、道場に於いては武産合
 気を正確に稽古して行けば、自然と禊の働きが生じ、稽古人は真人(まことびと)に近づ
 いて行くことになるのである。


・有名な先生に何年か習ったりすると
 私は、~先生に何年習ったと言って、あたかも、その先生が伝えようとしたこと全てにつ
 いて習熟しているかの様にふるまったりするが、これはとても恥ずかしい事である。
 まず、第一に有名な先生は、死ぬまで修行され、日々変化されている。 弟子は、有名
 な先生以上に日々研鑽し一時(いっとき)も休むことなく努力しないと、引き離されること
 はあっても、追いつくことはない。 要するに、偉い先生の変化の途中を垣間見た程度
 なのである。
 第二に、同じ先生に習うにしても、週に5回習う人と、週に1回習う人では、最低5倍は
 違うと言うことである。 
 何故、最低5倍と言ったかと言うと、実際は10倍位違うと言うことである。
 何故かと言うと、週に5回習う人は、様々な点で師匠には及ばないことに気付き、自分
 なりに稽古以外の時間で想いを巡らせ、求め続ける姿があるのである。
 週に1回の稽古の人でも、残った時間で想いを巡らせ自分なりに追い求めて行けば
 出来そうに見えるが、そうは行きません。 
 想いを巡らせる前に、自分の現在の状態(どの様な段階・位置にいるか)を知り、何が
 不足しているか気付くことが出来る必要があります。
 要するに、この気付きが出来ないのです。 気付くためのセンサー(感覚)が出来てい
 ないのです。


・至る人は、自分の至らない点を知り、
 至らない人は、自分の至らなさを知らない 
 本当に無知と言うのは恐い事です。
 誰もが、忙しい日々を過ごしています。
 自分自身の体調が優れない、会社の仕事が忙しい、家族との時間が欲しい、介護を
 する必要がある。 様々な理由があって充分な稽古をするのは、難しいでしょう。
 しかし、一方で自殺未遂者が年に50万人以上、引き籠り者が日本で150万人以上、
 精神安定剤や睡眠導入剤利用者が1000万人以上(推定)いて、更に、早々と認知症を
 患う人も数え切れないほどいますし、努力すれば介護を受けなくて済む人も数え切れな
 いほどいます。
 身体が動く内に、真人になるための生活習慣を身につける必要があるのです。
 貧困の人で上記の様な状態になったら絶望感しかないでしょう・・・・
 裕福な人でも、上記の様な状態になったら、何一つ楽しめなくなります。
 以上のことを良く考えて見る必要があります。 誰一人例外はありません。
 大先生は、合気道は真人の養成にあると言われ、もう一方で合気道を人や家族、国家
 の宝にする必要があると言われています。
 大先生は、一度たりとも金銭的(物質的)に豊かになることが人の幸せだと言われていま
 せん。
 物質的豊かになってはいけないとも言われていません。 
 真(まこと)を尽くし、結果として物質的にも豊かになるなら、決してそれを否定するもの
 ではありません。
 要は、真人(まことびと)を目指した生き方が、生涯に於いて、本当の幸せをもたらします
 よ!   と、大先生は言いたかったのだと思います。
 上記の様な悲惨な状態に陥らない様、日々、真人(まことびと)を目指した生活、稽古をし
 たいものである。


・日々の生活(実践)の中で、本当に真人(まことびと)を目指した想い、行動をとっている
   かを、省みる、恥じる、悔いる、懼る、悟る を以って確認しながら進む。
 稽古では、神心(かむこころ)になる為の稽古を目指す。 
 そうすることにより、至誠な状態に近づき、最後には真(まこと)に通じ、神の想いを知る
 ことになると思うのです。

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