2016年9月18日日曜日

顕(現)界のありがたさ

以下は、私の勝手な解釈と想いである。


・大先生は、合気道は禊ぎじゃ禊ぎじゃと言われて、禊の大事さを何時も言われている。 
 偉い先生は稽古じゃ、稽古じゃと言われ、合気道の稽古の大事さを何時も言われている。 
偉大な先生方が言われているのは、合気道の稽古を積み重ねることにより、心身の穢れ、淀みを禊いで、心身を整え、真心(まことごころ)を知り、人としての正しき道を歩んで欲しいと言う、祈りが入っている様に私は思う。
大先生は、合気道を稽古をする人、家族、国家、世界の人の宝にして欲しいとも言われている。


・神に通じる大先生が、この顕界に於いて、何故それ程までに禊ぎが必要だと言われるのだろうか?
それを知るには、顕界と幽界・霊界の違いを良く知る必要性がある。 幽界・霊界は肉身を持たず、生き通しの気付きの世界である事に注視すべきである。 
気付きの世界と言うのは、気付きが無い限り永遠にその状態が続くことを意味する。
これは全くの自在であると同時に何の変化も無く、考えようによっては暗黒の世界ともなりかねないのである。 
何事も同じ状態が永遠に続いたら地獄の様だと思いませんか? 
有限で制限だらけのこの顕界に生きる人間から見れば、自由自在で誰にも何も言われない世界は素晴らしいと思うかもしれないが、自在が故に気付かず、同じ状態が無限に続いたら、それこそ完全に自由さを失っていることを理解しなければならない。


・顕界が何故有限なのか? 何故、元つ御祖皇大神が肉身を持つ不自由な存在として人を創ったのか? 妙精な生き通しの霊的存在(魂)を何故不自由な肉身の中に納めたのか? この世は天国に比べたら地獄だと言う人がいるが、本当に元つ大神が人々を苦労させる為に魂を旅に出したのであろうか? 
これらの問いに対して、私は完全否定する。
顕界は大神様(元つ御祖皇大神)の慈悲によって存在していると思う。 霊界・幽界は気付くのが難しい世界だから、個として顕界に存在させ、個である人がお互いに切磋琢磨し合って、お互いが気付き合い、お互いがより良い方向へ進むのに最適な環境を大神様が創り上げ維持しているのだと思う。


・通常の人間は、体主心従霊属の為、個の属性である我欲(自分さえ良ければ良い)が全面に出る。 人前で押えていても、根本的に自分が一番可愛い、愛しい。 肉身が欲するものが一番可愛い、愛しい。 そのままの状態で死ぬと、気付くことの難しい幽界に、顕界の属性(我欲)を持ったまま行き、永遠の苦(気付きの無い苦)の世界で生きることになる。
この様な状態になるのを可哀そうに思う大神様は、限りある時間内に、お互いに助け合って、一刻も早く真人間の方向へ進めるよう、気付きの世界としての現在の顕界を創られているのだと私は考える。
現在の顕界と表現したのは、例えば地上に存在する人間が真人間になったら、顕界と言う層は別の働きがある層になるからである。 現在の顕界は、個が自分の存在の為にやりたい放題となっており、大神様が意図されている顕界とは全く異なっている。
 
・大先生が禊ぎが大事じゃだと言われ、偉い先生が稽古が大事じゃと言われるのは、この顕界の肉身にとって大事だと言われているのではなく、生き通しの魂(霊的生命)にとって、この顕界が真(まこと)について気付く最後のチャンスだと言われているのだと思う。 人々の内的生命である魂に永遠の苦の世界に行って欲しくないから、慈悲の祈りをされているのだと私は思う。  
このことは、正に人(生き通しの魂・霊)にとって宝である。 その宝は、合気道の稽古と言う禊で気付きとして与えられる。 禊ぎの稽古をするには、正しい稽古をする必要がある。 良く偉い先生が間違った稽古を何回しても意味が無い、むしろ害だと言われるのは最もであると思う。 正しい形、正しい想いの稽古をしない限り、禊は出来ないからである。
正しい形、正しい想いの稽古は心身を整え、気付きの連続となる。 これこそ、最大の宝である。

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