2016年9月18日日曜日

一厘の仕組み

以下は引用した神示の一部と私が勝手に解釈した内容である。


神示に「一厘の仕組み」と言われるものがある。
・ざからこ度は三千世界を元つ仕組みにタテカエ、タテナオス由、元つ正位正順の陰陽に、逆転致す申して居るのぞ。  逆位の体主心従霊属に魔釣る世を、正位の霊主心従体属に真釣る世にタテカエ、タテナオシ一挙に致して、万古末代滅びぬ嬉し、嬉しのミロクの御代と致すのじゃ。
マコトが一番でござるから、マコトを手にして下されよ。 ケガレ多き身、思えど、残るマコトの一厘で何かの神のご用をさせくれと、ケガレたとは申せ、ひそかに思うがマコト日本の人民様じゃ。
この方それを知りて居る由、汝が愛しいのじゃ。 何かのご用に使うてくれ申す者、一人も余さず使うてやるから、残るマコトの花一輪、何かに付けて見事咲かすが汝の務めじゃ。 一厘、磨きだされて見事、水晶と成して見なされ。 この方しっかと見届け致して、アッパレご用に使うてやるから、ガンバリ成されよ。 『火水伝文』より引用

・三個の神宝、真澄(ますみ)の珠、潮満(しおみつ)の珠、潮干(しおひる)の珠
潮満の珠は、厳(いつ)の御魂である。 「いづ」は泉の「いづ」である。 泉のように清らかな神水が無限に湧出する神宝である。 これをヨハネの御魂という。
潮干の珠は、瑞の御魂である。また、キリストの御魂という。 「みづ」は「みいづの御魂」という意味である。 みいづの御魂は、火の活動を万有に対して、無限に発射する。 世界を清める活用がある。
真澄の玉(珠)はあらゆるものを照らし、この世を浄化へと導くもの。 (説明は、他より引用)
いずれの宝も、世界の終末に際して、世界改造のために大神が御使用になる神宝である。 これを使用する神業が、一輪の秘密である。
国常立尊は邪神から守るために、冠島・沓島に三個の神宝を隠したのだが、実は島には珠の体のみを納めておき、珠の精霊はシナイ山の山頂へ、誰にも知らせずに隠しておいたのである。
『霊界物語』より引用

 ・これより先、新しき世に至るまで暫しの年月、辛抱肝心ぞ。
人民様、程度の差こそあれ業火の死遂げる者、生き残り塗炭の苦しみ受ける者、二つに一つになりたぞよ。 人ごとでないぞ。 汝も同じぞ。 悪人、善人らちもない。(区別なし)  死に行かれる者も、残し置かれる者も聞くのざぞ。 この度は地球最後の転生の時、天意転換の時ぞ。それゆえの厳しさぞ。 全人類、己(おのれ)が囚われ積みしケガレ、一点の曇り無きまで祓い清めせなならんから、数多(あまた)の民、死ぬる者も、残りし者も相等しく阿鼻叫喚の地獄の如き洗礼をその身に受けねばならんのぞ。 女、子供辛きこと哀れであるが、一人とてこれ避けること出来んから、早よう魂磨きてくれよと申して来たであろうが。
遅し、神、既に動きたぞ。
浮かれ暮らす人民様、この度のこと取り違えあれば、末期の不覚となりぬるぞ。 しっかと世情見ていて下されよ。 現界の荒ぶる現象、いよいよ混乱狂気となりておろうが。 正邪、背徳、驕奢の膿、様々なる形なさして世に噴出させておろうが。 これ予兆ぞ。 既に世界はウラにて一つになりたぞよ。
真中を過ぎし不測の時、世界の悪勢一挙に入り来たり、全土を一つと七つに分け占めて、修羅の地獄と化さしめん。 これ、こたび初めの神仕組みなり。 これ日本の事ぞ。マコトぞ。 仕組みありて、真先に日本祓い清めせなならんからぞ。 国、土台から破壊され、ケガレし権力潰えしも、外なるケガレ逆巻きて内なるケガレ祓うのぞ。 私有財産壊滅し、衣食住にも窮迫し、国民同士の戦(いくさ)ある。
人と獣(けもの)との分かれ目ぞ。 ケガレしものの消ゆるまで、三歳苦難の道行きぞ。
こは神仕組み神ハタラキなれど、汝等人民様の招きしことなるぞ。 汝の欲心甘やかし来たりたであろうが。しただけの事は拒めぬぞ。神恨むでないぞ。 しかあれ、人民様の苦しき死、残り苦しむ様、望みてないぞ。 既に遅けれど、このワケ、縁ある者に伝え置く。 この度死ぬる者は、このワケ聞いて肚(はら)に入れ、生き戻れるように死んで下されよ。死んでも頑張りて下されよ。 残されし者も同じぞ。死に急ぎなさるなよ。よくよく頑張りて下されよ。 よいな、三年の間ぞ。 三年の間、汝等の心魂、修羅場と化せしその地にて、耐え難きを耐え、魂磨くのぞ。 死して逃れんと欲っせしも、異界にて万倍の地獄飲まなならんのぞ。 神、頼むぞ。 汝等蒔いた種なれば、こらえにこらえて三真釣り持ち行け。 聞く耳出来たか。神、急ぐのぞ。 仕組み始まる前に聞いて下されよ。 
ここ数年の事ぞ。
仕組み始まりたれば三年の間、神一切手出しせぬのざから、このフミも手に入らんようになるのざから。 イノチある内に聞いて下され。 「そは何ゆえなりや、、、と」。  汝、初めて真理問うのぞ。 神、嬉しいぞ。
その心魂やよし。 お前様はこれまで、真理に向かいしこと希薄にして、この最後の時まで不明で在りしこと、はなはだ遺憾なれど、その身さかれし前に向きしこと稀有にして縁なり。
さればその心魂、最後まで持ち行きて下されよ。 三真釣り持ち行く者なれば、三歳苦難の間でも呼べば助くる、手出しする。 よいな、
 終わりと成すも始めと成すも、汝次第ぞ。 しっかと聞いて肚(はら)に入れ、よくよく頑張りて下されよ。  死に行くワケ、語りて聞かすぞ。 生き残されしワケ、語りて聞かすぞ。 新しき世も語りて聞かすぞ。  神、一人でも多く戻り来たりて欲しいのぞ。 よう戻りて下された。 永きご苦労の旅でありたが、神、よくよく汝の元つ光輝知りておる。  神、汝が可愛いのじゃ。 もう離れんでくだされよ。 神頼むぞ。
こ度このフミこの時出すは、汝等早うスミキリて、神ごころ戻るを促すがためなるぞ。
こ度の大変、身魂磨かれ居れば、スミキリて神ごころ近くありせば、何処に居ろうが、何が起ころうが、ご心配まったく無用なるを知りて欲しいからぞ。
これよりこ度の大変段々に語りて聞かすが、コクな事も聞かさならんから、神も辛いが、後々汝等善きようにしてやるから、マコトスミキリて神のお手伝いできるよう、 勇んで励みて下されよ。 死ぬる者も生き残されし者も、生死一如なるを知りて下されよ。
こ度は生死超えたる仕組みなるが由なり。 死しても頑張りて下されと申すもわかるであろうが。 こ度のこの文、マコト日本の人民様に伝うるフミぞ。
『火水伝文』より引用


以上は、神示の一部である。
以上を読まれた方は、どの様に思われたでしょうか? 
以下は私の勝手な解釈と想いである。

 火の構え(働き)と水の構え(働き)によって、あらゆるものが生じた。 そして生じたものには真善美が核として組み込まれた。 (真善美が組み込まれたと言っても、真があれば善と美は生ずると自分は思っているので、真が組み込まれたと言っても良いと思っている)
始原の時、快欲によって体主心従霊属が生じ、長い年月を経て、今の様な我欲が支配する乱れた世界になってしまった。 物欲、権力欲、名声欲、支配欲・・・個が欲するものが世界を覆ってしまった。 どうやったら、一体元の真(まこと)の世界に戻るのだろうか?
結局、産み出したのが、火と水と真(まこと)だったので、顕界に於いての大掃除は、火攻め、水攻め、真(まこと)攻めが行われると自分は思う。 火攻め、水攻めをしのいだとしても、最後の真(まこと)攻めは、各自が真(まこと)心を発揮しない限り救われないのだから、真(まこと)を持たない限り消滅すると思う。 幽界も消滅するので、もう行き場所が無くなるのである。 このことは、死んでも死に切れないと言うことになり、その苦しさは、自分には想像できない。 言ってみれば、無限の苦しさである。
今こそ、真(まこと)を現す努力をしよう。


何故、痴呆症がこれほど増えているのだろうか? 何故、これほど介護が必要となっているのだろうか? 老人が増えた、病気になっても進んだ医療で長生きしてしまう、福祉制度の充実で衣食住の心配は無くなった(貧しくても)・・・・この様な理由は、表面上のものだと思う。
人間は歳をとっても、自己のいい加減さに厳しく立ち向かい、人生の目標を達成(人としての完成)するために、日々努力を重ねるならば、これほどボケ老人が増えることは無いと思う。
歳をとってからの無目的な人生ほど人をボケさせるものは無いと思う。
元々、個の属性としての欲は、自己保存(種族保存)、物欲(金銭欲)、名誉欲、権利欲、食欲等であり、個の肉体的特性が欲するものである。 が故に、体主霊属と言われる訳でもある。
この体が元気なくなり、衰え始めたら、当然欲も比例して無くなって来る・・・・そうすると、無目的になり、何も受取ろうとしなくなる。 こう考えてみれば、歳をとったらボケるのが自然であり、むしろボケない方が自然に反すると思う。
では、どうしたらボケないで、そして介護などで人や国家にお世話にならないで済むかと言えば、やはり個の属性から離れた目的を持った人生を歩む必要がある。
それは、やはり真人(まことびと)を求めることだと思う。 
上記の一厘の仕組みを本当に知り、理解できるならば、ボケる暇など無い。 ボケたから助かるかと言うと、全く逆で絶望的だと思う。 この世の悪人でも最後に気付き正しい方向へ進むよう努力するなら、死んでもまだ救われる方向へ進むが、ボケたら進む方向さえ分からず、体主霊属のままで、何の疑問も持たず死ぬ訳だから、もう、消滅することしか残されていない。


昔の人が何故ボケないで済んだかと言うと、まず、季節の中で生きた。 自然の幸を旬として頂き、神社でお祭りをし、年寄りも子供も一緒にその役割を果たしながら、グループとして元気があった。
年寄りが大きな流れとしきたりの中で重要な役割を果たした。 祭りの中でも、日々の生活の中でも、何時も先頭に立っていた。 朝日を拝み、お月さまを拝み、日々の自然の恵みを頂き、朝から晩まで年寄りは働いた。 こんな生活をしていたら、眠れず睡眠薬が必要になる等考えられない。
老後施設など必要無く、自然が老人の住み家なのである。
こんな生活をしていれば、何も自然に感謝しろと言わなくても、ごく自然に心奥底から自然に対して感謝の気持ちが湧き出てくるものだ。
昔の老人は真(まこと)一筋等と言う言葉を知らなくても、寺の住職さんの法話を夜になると聞きに行った。 そして、ありがたいお話を聞いたと言って、自分の宝物の様にして生き方に活かして行った。 自然と共に生き、自然に感謝し、周囲の人々に感謝し、生きている限り一日一日を大事に生きて行く年寄りに一厘の仕組みなどを話す必要はないと自分は思う。

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