2016年9月18日日曜日

世の仕組み

以下は私が勝手に想像する世の仕組みの解釈である。


・世の仕組みとして、顕界、幽界、霊界、神界が存在し、更に各界は成長度合(浄化度合い)によって次元が無限に存在する。 
但し、幽界は人の想念が創り上げたもので本来は存在しない。 人が全て真人となった場合、幽界は消滅する。 その時点に於いては、地上は地上天国となる。
時間と空間は顕界が生じた時に、同時に発生したものであり、霊界、神界には顕界の様な時間、空間は無い。
但し、幽界は個(人・物)が創りだしたものであり、個の属性(欲)に引きずられている為、緩やかな時間がある様に思うが、はっきりとは分からない。


・人は死ぬと、浄化の度合いによって、顕界 → 幽界 → 霊界 → 神界 と移動する訳だが、自分の意思によっては移動できず、浄化が進むと瞬時に移動する。
顕界以外には、顕界の様な時間と空間は存在しないが、顕界の尺度で言うと、時間も空間も無限と言う事になる。 霊的生命は、浄化を繰り返し、神への旅を無限に続けることになる。


・人には二つの心が存在する。 一つは霊的な心であり、もう一つは肉身的な心である。
浄化の度合いと言うのは、言い換えると真(まこと)の度合いと言う事になる。 このことを理解するには、心には霊的な心と、肉身的な心があることを良く理解する必要がある。 
霊的な心と言うのは霊から発する心であって真(まこと)一筋と言う事になり、真(まこと)以外の存在は知らないと言うことになる。 
肉身的な心と言うのは、個の存在を維持しようとする心であって、本来的には自分さえ良ければ良いと言う自己中心的な欲の心である。
この二つの心の内、どちらが主導権を握るかによって、現れる現象が大きく変わる、全く別の現象が現れることになる。 
霊的な心が主導権を握れば、霊主心従体属となるし、肉身的な心が主導権を握れば体主心従霊属の状態になる。 すなわち、浄化の度合いによって、最初は体主心従霊属の状態であったのに、徐々に霊主心従体属とに変わって行くと言う事になる。


・何故、幽界が存在するかと言うと、体主心従霊属の状態で死ぬと、霊界は霊主心従体属の層(世界)なので一気には行けない。 そこで顕界であるこの世と霊界の間に幽界と言うものが存在することになったのである。
この幽界は、とても厄介な存在でもある。
顕界時代の個としての闇(欲)の持ち具合で幽界の中のどの層に行くかが決まるからである。
プライドが一番と思っている人はプライドを大事にする幽界の層へ、人を殺めたり傷つけたりすることが好きな人はその様なひとが集まる幽界の層へ、金銭や物が一番と思っている人はそのような物欲を大事にする幽界の層へ、セックスや乱交パーティ等が第一だと思っている人はそのような人が集まる幽界の層へ行くことになる。
幽界も永遠に続く世界ですから、完全には満足できない状態で、永遠に求め続け、誰からも注意されることなく、集まっているもの全てが個(自分自身)が大事な為、永遠に争いながら、優劣を競うと言うことになる。
これは正に地獄と言える。
何故、満足出来ないかと言うと、個としての肉身が死ぬ事によって個(肉身)そのものが存在しないのに、霊的な心を個(肉身)の属性である欲がすっぽり包み込み、個の属性(欲)が働き続けるからである。 個の属性(欲)が目的を達成しても、その喜びを感じ取る肉身が無いから満足出来ないのである。
幽界では、個の自在が認められている為、誰も注意しないので、本人が気づこうとしない限り永遠に続くことになる。
顕界で誰かから指導を受けたり、注意されることは、何とありがたいことであろうか・・・と思う。


・神様が創りだした顕界(物)の世界は、時間と空間があり有限ではあるが、本来は全て真(まこと)の世界である。 何故なら顕界の全ての物に真善美が組み込まれているからである。 真(まこと)は常に調和を生みだす。 調和は美となり、そして喜びを生ずる。
真(まこと)とは神様の想いであり、無限の愛そのもであり、何の混じりも無い純粋そのものである。 人が神と繋がるには、真(まこと)以外に方法は無い。 だが、人が真(まこと)一筋になるには、個としての属性(欲心)を封じ、霊的な心を発現しなければならないので、通常人には難しい。

1 件のコメント:

  1. これが『マコトビトの養成』への入り口ですね。
    わかることよりも、浴びるのが良さそう。
    そして、いつか染み込んでくるハズ、、、歩んでいけばね。

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