2017年1月9日月曜日

神呼吸

・私は、昔、2年間ほど毎日大周天の呼吸法をした。 この呼吸法は、天地を意識した呼吸法であるが、吐く時は天から滝の様な気を頭上を通して自分の前面を通過させ、地の奥底まで送り込み、吸う時は地下水を吸い上げる様な気持ちで足の裏から吸い、自分の背面を通過させ、宇宙の果てまで送り込む呼吸法である。 前面とか背面とか言っても、身体の表面のことを指すのでなく、骨格の前と後ろと言う意味で、殆ど中心軸を指す。 
尚、この呼吸法は1分で一呼吸するのを目標とする。 毎日この呼吸法をして、1年も経つと、ごく当たり前に一分一呼吸することができ、苦しさもなくなり、心身が禊がれた感じがする。
この呼吸法は、毎日10分(10回分)した。 
この呼吸法をした後、瞑想をすると、とても良い瞑想が出来た。
この頃に何が可能になるか色々と確かめた。 
雲を消す、自分の体温を下げる、花粉症を治す、こむらがえりを治す、どんなに忙しくてもいらいらせずに仕事を消化する・・・・こんなことが出来る様になった。
各人の特性を見る為のオーラを見れる様になろうと努力したが、途中で止めた。 ただ、生きてる木々のオーラとビルや家のオーラには違いがあることは見えた。
オーラの見方は、私の場合、普通に見ていては見えなかった。 物体と空間の境目を視点を合わせず、少しぼやけた感じで見ると、光の膜の様なものが見える。 その膜が発する、気と言うか光と言うか、良く分からないが、それが生きているものと生きていないものでは違うのである。


・今は合気道の稽古前に禊行(業)の一つとして神呼吸をしている。 いくむすびと唱えながら、い~で吐き、く~で吸い、イメージとしては虚空より想いによって妙性な気を吸い、自分の荒い氣と結んで新たな生命力(気)を生じさせ、そして吐く時は、自分の発する気を宇宙に充満させる気持ちでしている。 さて、日々の生活や合気道の稽古に於いて、自分の内側を変えないで臨んだ場合でも自分の心身を禊ぐことが出来るのであろうか?


・以下は、ドイツ人探検家テオドール・イリオンが1930年代初頭にチベットを探検した時の一文である。 この体験記は、当時のドイツを掌握していたヒットラー・ナチス政府に大きな影響を与え、ナチス政府が毎年チベット調査団を派遣するための媒介となったことでも有名だそうである。
『私は、ヨーロッパにいた時にも、一分間に三度しか呼吸しなかった。殆どの白人は、呼吸の際に肺の力の十分の一も使っていないので、一分間に15回かそこらは呼吸しているはずである。 このような人達が標高5000メートルのチベット高原を時速6キロのスピードで歩くとすれば、呼吸数は毎秒3回になり、300メートルも行かない内に倒れてしまうだろう。 ここで注意しておかなくてはならないことがある。 私は、呼吸訓練をしてこの様なゆっくりした呼吸を身につけた訳ではないのだ。 人は、意識して呼吸のリズムを変えたりしない方がいい。 空気がタダだからと言って呼吸を遅くしようと努めたり、そこから何か ーーそれが物質的利益であれ霊的利益であれーー を得ようと期待したりすれば、遅かれ早かれ呼吸によって身を滅ぼすことになる。 何かを得ようと言う目的の下にわざと呼吸訓練に励んだりすれば、大抵の場合、神経機能を低下させることになるのだ。 呼吸は、無意識なものでなければならない。 私たちが内側から変化すれば、また、「人からしてもらいたいと思うことを自らする」精神で周囲のどの様なものにも接するようにすれば、不完全な呼吸を起こす心の緊張状態も、おのずとなくなってくるのだ。 我欲をすすんで制限し、生命を保って行くのに必要なものだけをとり、それ以上のものを望まない様にすれば、私たちは心理的にも肉体的にも、この様な緊張状態をなくせるのである。 身体がリラックスした状態にあれば、深いゆったりした呼吸はおのずと、無意識の内に身につくようになる。 だが、自己中心性などの、悪い呼吸習慣を形作る原因を変えることなく、意図的行為によって呼吸をコントロールしようとすれば、自滅への道を辿ることになるのだ。』


・さて、上記を読んで、皆さんはどう思われましたか?
私の結論は、次の通りである。
結局は、元(原点、源泉)を正さない限り、真(まこと)の禊は出来ないと言う事です。
大(翁)先生が、真人を養成するには、正しい想いが大事だと言われるのは、そこにあると思います。 正しい想いを持ち、ことあるごとに省みて、自分の言動を正しい想いと照らし合わせて、外れていないかチェックする。 そして、悔い、恥じ、懼れ、悟って、またぶれることなく、進んで行く。
この様な正しい想いと実践の中で神呼吸を積み重ねて行けば、心身の禊が進むと思うのである。 正しい想いとは、我欲を少なくし(肉身が欲する欲を少なくし)、霊的な心の進化を大事にして、神様に通じる様な心になるための想い持つことである。

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